ヤマキ 和食を世界に広げ、食のメインストリームにする
1917年、わずか3台の削り機で削りぶし屋を始めたヤマキ。ロングセラー商品「花かつお」を生み出し、鰹節とだしのリーディングカンパニーとして日本食文化に貢献してきた。次の100年を見据え、海外展開を加速する3代目社長の城戸善浩氏に、同社の事業変革と成長戦略について聞いた。
固体・粉体・液体の全てを
網羅するだしの総合メーカー
かつお節削りぶしの生産量で日本随一を誇る愛媛県。だしの総合メーカーのヤマキは、1917年に伊予市で創業した。海産物問屋「城戸商店」を営んでいた城戸豊吉が、大阪の市場で堅い節を花びらのようにふわりと削る削りぶし専用の切削機と出会い、3台を購入して削りぶしの製造を開始した。これが、ロングセラー商品「花かつお」の起源であり、ヤマキの歴史の始まりだ。
「曽祖父の豊吉は長男でありながら、家業を継がずに分家して削りぶし屋を創業しました。当時、一般家庭の調味料にはかつお節や煮干しが使われていましたが、調理の度に手で削る煩わしさがありました。現在はかつおの荒節(カビを付けていない鰹節)のみを削ったものを総称して花かつおと呼んでいますが、当時の削りぶしは、イワシの煮干しや宗田節やさば節が主体。戦前は原料に関わりなく“削りぶし”を全て“花かつお”と呼んだ時代もあったそうです」とヤマキ3代目社長の城戸善浩氏は語る。
豊吉は製造した削りぶしを阪神方面へは機帆船を使って、大阪以東へは機帆船で広島まで運び、そこから貨車に積み替えて輸送した。さらなる販路を求め、1931年に東京支店を開設。生産体制強化のため、1937年に伊予市に工場を新設した。切削機は60台まで増え、全国から注文が殺到したという。うなぎ上りの業績が続いたが、時代はさらなる躍進を許さなかった。第2次世界大戦時、国策へ協力するために機械設備を解体・供出し、全面廃業へ追い込まれたのだ。しかし戦後、工場が返還されると、切削機を1台ずつ増設しながら削りぶしの生産量を増やしていった。
城戸氏の父である恒氏の時代には、「花かつお」に次ぐ第2・第3・第4の成長エンジンが相次いで開発された。1969年発売の「だしの素」は、だしひきそのものの手間を解消する画期的商品として人気を博した。1971年に社名をヤマキに変更すると、翌1972年に1袋5g入りの使い切り「カツオパック」を発売。上質の本枯れ節などを原料に、削りたての味と香りを失わない特殊包装を施すことで、進物用の商品として需要が急伸し、売上増加に大いに貢献した。さらに1979年、調理の味付けの手間そのものを軽減する和風液体調味料「めんつゆ」を発売した。商品開発にあたり、社員が東京の老舗そば屋で修業するという徹底ぶりが奏功し、同社初となる液体調味料の売上は大きく伸長。固体・粉体・液体の全てを網羅するだしの総合メーカーヘと成長を遂げた。
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