産業革命遺産と明治150年に学ぶ 日本経済再生のヒント
今年は明治改元(1868年)から150年の節目の年にあたる。かつて日本が黒船来航によって長い眠りから覚め、明治維新によって新しい時代を創ったことは周知のとおりだが、平成の今も長年の経済低迷という『眠り』から覚めて再生に向かおうとしている。日本経済が本当に再生を果たすには何が必要か、そのヒントが明治維新には詰まっている。
そのことを、目に見える形で我々に教えてくれるのが、日本各地に残る近代化産業遺産である。その代表例が、世界遺産に2014年に登録された「富岡製糸場と絹産業遺産群」と、同じく2015年の「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」だ。
図 「明治日本の産業革命遺産」の構成資産
世界遺産になった産業遺産
富岡製糸場は1872(明治5)年、日本初の官営製糸工場として現・群馬県富岡市で操業を開始した。同工場は器械製糸工場としては当時世界最大で、その品質は高く、海外にも輸出された。日本の生糸生産の中心となり、生糸は日本の基幹産業に発展していく。
富岡製糸場は1893(明治26)年に三井家に払い下げられ、やがて片倉工業(当時は片倉製糸紡績)へと引き継がれた(1939年)。片倉工業は同製糸場を1987年まで操業したが、操業停止後も「売らない、貸さない、壊さない」を合言葉にし、2005年に富岡市に寄贈するまで保存管理を続けた。同社のその経営方針がなかったら、世界遺産登録も実現しなかっただろう。
現在の富岡製糸場は、140mに及ぶ長さの繰糸場や繭倉庫など主要施設が明治の創業当時のまま残っている。建物は木の骨組みに煉瓦で壁を積み上げる「木骨煉瓦造り」という西洋式の建築工法で建てられているが、屋根は日本瓦葺きで和洋融合方式だ。在来技術の土台の上に西洋技術を導入して新しいものを作り上げるやり方は、当時の近代化の特徴となっている(詳しくは後述)。
一方、重工業の発展の跡を示すのが、「明治日本の産業革命遺産」だ。同遺産は、鹿児島、長崎などから静岡、岩手の8県にまたがる23の施設が一括して世界遺産に登録されたもので、その正式名称どおり、製鉄・製鋼、造船、石炭の産業遺産群で構成されている。その主なものは、軍艦島(長崎市)、旧グラバー住宅(同市)、松下村塾(山口県萩市)、旧集成館(鹿児島市)、韮山反射炉(静岡県伊豆の国市)、橋野鉄鉱山(岩手県釜石市)などで、全体を見渡すと、幕末の黎明期から明治維新を経て産業革命を達成していった過程がよくわかる。
この中には反射炉がいくつか含まれている。反射炉とは、炉の内部で銑鉄を高温で溶かし大砲を鋳造する装置で、幕末期に幕府や有力各藩が相次いで建設した。この背景には当時の国際情勢があった。江戸時代の後期になると日本近海に外国船が出没するようになっていたが、アヘン戦争(1840~42年)で清国が英国に敗北し、一部の藩や幕府首脳の間では日本も欧米列強に侵略されるとの危機感が高まった。当時の日本には鉄製の大砲など存在していない。
そこでまず佐賀藩が、大砲鋳造法を記した蘭書を入手して藩内の蘭学者に翻訳させ、それをもとに反射炉を建設、1852年に完成させた。ペリー来航(1853年)より前である。薩摩藩主・島津斉彬も佐賀藩を通じて同書を入手し、これもまたペリー来航前に反射炉建設に乗り出した(完成はペリー来航後)。佐賀も薩摩も本だけを頼りに、見たこともなかった反射炉を作ってしまったのだ。
トップを切った佐賀藩の反射炉は残っていないため、世界遺産の対象にならなかったが、その反射炉で造った大砲を搭載した軍艦を建造した。そのドックの跡、三重津海軍所跡が世界遺産となっている。反射炉では、基礎の石組みが現存する鹿児島(旧集成館の一部)のほか、萩(長州藩)、韮山(幕府)のものが現存しており、世界遺産に登録された。
これらの反射炉は明治以降の近代的製鉄業の源流となる。薩摩の反射炉技術が水戸藩を中継にして盛岡(南部)藩に伝わり、それをもとに同藩士の大島高任は1857~1858年、日本初の洋式高炉を釜石に二つ建設した。このうちの一つ、橋野高炉跡が橋野鉄鉱山として世界遺産に登録された。
これが明治になって釜石に初の官営製鉄所を建設することにつながり、やがて官営八幡製鉄所へと受け継がれていく。八幡、釜石の両製鉄所はその後、日本経済発展の中心を担い、現在は新日鉄住金となっていることは周知のとおりだ。
近代モノづくりを支える
3つのポイント
このような反射炉と製鉄の歴史、そして「明治日本の産業革命遺産」には重要なポイントがある。
第1のポイントは、危機を乗り越え、それをバネにして可能性を切り開いたことである。欧米列強による侵略の危機という大変な事態に直面し、それを乗り切るために西洋技術を導入して近代化を成し遂げたわけだ。これは反射炉だけではなく産業遺産全体に当てはまることであり、さらに言えば植民化を防いで独立を守りながら近代化を成し遂げた当時の歴史そのものが「ピンチをチャンスに変えた」と言えるだろう。
今日もまたバブル崩壊、円高、リーマン・ショックなどたびたび経済危機に見舞われ、最近も貿易摩擦再燃の恐れなどピンチが続いている。しかしそれにひるむことなく立ち向かうことが経済再生の原動力になると歴史は教えている。
第2のポイントは、日本経済とモノづくりの底力だ。前述のように、幕末期から有力各藩は自力で西洋技術を導入して近代化に取り組み、それが明治以降の発展の礎となった。しかしそれは単なる西洋のモノマネではなかった。
反射炉を例にとると、煉瓦を積み上げて炉の外壁と煙突を作り、内部を1500~1600度の高温にする必要があるが、当時の日本には煉瓦建築も、ましてや高温に耐えられる煉瓦製造の技術もない。そこで薩摩藩主・島津斉彬は薩摩焼の職人を動員して耐火煉瓦を作らせた。佐賀藩では有田焼だ。このように、在来技術を活用して西洋技術を組み合わせ、新しいものを作り出していった。これが、日本のモノづくりの大きな特徴である。
さらに驚いたことに「明治日本の産業革命遺産」の中には、100年以上たった現在でも稼働している産業設備がある。三菱長崎造船所のジャイアント・カンチレバークレーン(現・三菱重工業)、同造船所第三船渠(同)、官営八幡製鉄所の修繕工場(現・新日鉄住金)、三池港などだ。そのうちのジャイアントクレーンはつり能力150トン、高さ約61メートル、アーム長さ約73メートルと、その名の通り超巨大であり、想像がつかないほどの負荷がかかるにもかかわらず、である。まさに日本のモノづくりの技術水準の高さ、丁寧なメンテナンスとオペレーションという原点がよく表れている。
今日の日本経済にとっても、こうしたモノづくりの底力を改めて見直し、本領を発揮することが復活への足がかりとなることは間違いない。
第3は、当時の先人たちの不屈のチャレンジ精神と企業家精神、そして志の高さである。反射炉の建設は、各藩とも何度も失敗し試行錯誤を繰り返した末に、ようやく完成させたものばかりだ。
明治になってからの近代化も簡単に達成されたわけではなかった。釜石では官営釜石製鉄所の経営が赤字続きだったため、明治政府が鉄問屋、田中長兵衛に払い下げた。田中は高炉を作り直して、操業再開を試みては失敗を繰り返し、その回数は49回に及んだ。そうしてようやく操業再開にこぎつけた。
一方、官営八幡製鉄所は1901(明治34)年に完成したが、間もなくして不具合が生じて操業停止に追い込まれてしまう。そこで炉内を改修し操業方法も改善して操業を再開するが、再び操業休止。結局、操業休止は3度に及んだ。このため完成したばかりの八幡製鉄所は存続の危機に立たされたが、現場の技術者たちはあきらめずに改善を重ね、やっと安定操業を実現したのだった。
この時の釜石の田中長兵衛や八幡の技術者たちの挑戦があったからこそ、その後の日本の鉄鋼業、いや日本経済の発展が実現したとさえ言える。そしてどの産業遺産も、先人たちが努力して作り上げたものなのである。
"ラストサムライ"のレガシーを
経済再生のヒントに
このように挑戦を続けた先人たちを筆者は「ラストサムライ」と呼び、史実に基づいてその奮闘ぶりを『明治日本の産業革命遺産 ラストサムライの挑戦! 技術立国ニッポンはここから始まった』(集英社)にまとめた。"ラストサムライ"たちは明治維新からわずか20~30年で近代国家としての体制を確立するとともに産業革命を達成し、今日につながる経済の基礎を作ったのだ。その足跡を知ると、我々も元気づけられる。
筆者は長年、新聞とテレビで日本経済と世界経済の報道に携わってきたが、変化が激しく先行きが不透明な現在であればこそ、歴史から学ぶことが重要だと痛感している。
各地に残る産業遺産は単なる過去の遺産ではなく、現代に引き継がれた「レガシー」である。来年には新しい元号となる。先人が残した遺産から、日本経済再生へのヒントをくみ取り、未来に活かすことは我々の責務である。
- 岡田 晃(おかだ・あきら)
- 大阪経済大学客員教授・経済評論家
『環境会議2018年秋号』
『環境会議』は「環境知性を暮らしと仕事に生かす」を理念とし、社会の課題に対して幅広く問題意識を持つ人々と共に未来を考える雑誌です。
特集1 地域特性でつくる日本型SDGs
特集2 自然資源の利活用で新事業を創出
(発売日:9月5日)