2020年1月号

人間会議

イノベーションは何のために ―SDGsを見据えた哲学的一考察

一ノ瀬 正樹(武蔵野大学 グローバル学部 教授)

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環境破壊や地球温暖化を問題と捉え、その抑制に取り組む活動が国際的に唱導されている。だがそもそも、なぜ私たちはこれらを解決すべき、―あるいは解決できる―問題だと考えるのだろうか。哲学研究者の立場から、問いを掘り下げ、私たちの思考の深層をえぐり出す。

いま石炭火力発電(火発)が批判の矢面に立っているようだ。なにより、大気汚染と二酸化炭素(CO2)排出をもたらすという点で、国際的な環境政策に逆行すると見られているからである。もちろん、日本の火発の技術力は素晴らしく、かつて問題となった「硫黄酸化物」などの排出に関して大幅な技術革新を成し遂げ、いまやほとんど問題を生じさせないようになった。けれど、CO2排出は避けられない。では、なぜCO2排出が問題なのか。言うまでもない、地球温暖化を促進させると認識されているからである。むろん、地球温暖化については懐疑的な見解もある。しかし、私が問題にしたいのはそういうことではない。「環境破壊や地球温暖化はいけない」という、考え方そのものに焦点を当てたいのである。なぜ私たちは環境破壊や地球温暖化は悪いと考えるのだろうか。

このような問いはばかげたもののように聞こえるかもしれない。環境破壊や地球温暖化が私たち人間の生活を脅かし、ひいては生物全体の生存を危うくするからに決まっているだろう。しかり。だが、人間の思考をどこかで限界づけてはいけない。「なぜ」の問いは、押しつぶしてはいけない。(1)「なぜ」私たちは、私たち自身の生活を脅かし、生物全体の生存を危うくすることを避けねばならないと考えるのだろうか。そして、さらに問いたい。(2)「なぜ」私たちは環境破壊や地球温暖化など、私たちや生物の生存を脅かす事態を食い止める方法があり、それを実行できると考えるのだろうか。この二つの「なぜ」は、そもそも疑問として提起することそれ自体が道徳的に不遜であるか、あるいは何を問うているかが理解しにくい問いだと思われるかもしれない。あまりに根源的かつ自明な前提に対して、奇妙な問いを投げかけているように聞こえるからである。しかし、私は、哲学研究者の視点から、この二つの点について、真に不可思議に感じているのである。「なぜ」と問うことを抑えられないのである。

SDGsの17のゴールを表したロゴ

出典:国連広報センター

 

季刊 人間会議

 

宇宙視線と人生視線

(1)の「なぜ」は本当に根源的な前提に関わる。2015年に国連で採択されたSDGsの17のゴールは、すべて、私たちや生物が存続し続け、安寧な生活を送ることを目指している。貧困や飢餓への対策促進、自然環境の改善や保全、住居やインフラの整備、産業の振興やイノベーションの推進などなど、「ありうべき未来」を示すことで、私たちの安寧で幸福な生存を希求している。私の所属する武蔵野大学も含めて、多くの企業や機関がこれを是と捉えて、その実現へと舵を切っている。一社会人の立場として、本当に素晴らしいプロジェクトだと感じるし、こうしたゴールにこれほど多くの人々が共感し、協調的な行動を大きな力で取ろうとしていることに感動さえ覚える。とりわけ、これほど、津波震災や台風や噴火など、自然災害の多い日本に暮らす私としては、自分自身が被災して困難を経験したり、ほかの被災者や被災動物のありようを知るとき、本当に苦しい。こんなことは発生しないでほしいと心底から願う。人々の安寧な生活実現を願う。この願いは真正のものであり、欺瞞など一切ない。そういう意味で、そうした願いの実現を、全世界を挙げて組織だった仕方で実現しようと宣言するSDGsには、全面的な支持を表明したい。

しかし、すべての事柄には多様な面がある、ということも事実として認めなければならない。そもそも、SDGs17のゴールの内部において、整合性が完全に取れているか、疑問なしとはしない。産業振興と環境保全は果たして両立するのだろうか。しかし、これはむしろ、そういう両立性を目指してSDGsを実行していきましょう、という態度表明なのだと捉えればよいかもしれない。しかしながら、もっと大きな視野から考えたとき、虚無的な疑問が湧く。人類や地球が存続することなど何ほどのことなのか、そんなことを前提にして行動することに正当性があるのか、というきわめて冷めた、ドラスティックな見方が頭をもたげてくるのである。この宇宙はあまりに広大であり、地球など、ほんのちっぽけな一部にすぎない。まして、人類など、その地球の40億年ほどの歴史の中でも、遡ってもせいぜい100万年に生まれた新参者にすぎない。そんな者どもに、この地球をどうこうする権限が果たしてあるのだろうか。そして、たとえ仮に人類が滅んだとしても(実際いつかは滅ぶだろう)、宇宙や地球の歴史の中で、ほとんど記録にも残らない極小の出来事でしかないのではないか。私はこうしたものの考え方を「宇宙視線」と呼びたい。

それに、いまのまま何もしなければ本当に環境破壊や温暖化が進んでしまうのか、その根本のところも問うてよいだろう。私たち人類がエビデンスとして得ている自然現象についての情報は、たかだか数百年程度の期間に関するものにすぎない。自然科学はそうしたエビデンスを、人類誕生以前、地球誕生以前の自然法則が、私たちが理解していると思っている自然法則と同じであるという考え(「自然の斉一性」と呼ばれる考え)に基づき、遠い過去や遠い未来に外挿して適用する。だが、自然法則が永劫不変であるという根拠などない。

私は、しばしばこの「宇宙視線」に捕らわれてしまう。しかし同時に、先に記したように、ただいま現在の災害などの苦しみにも、途方もないリアリティを感じてしまう。SDGsの有意義性を感得しないではいられない。そうしたリアルな捉え方は、「宇宙視線」に対して「人生視線」とでも呼べるだろうか。すなわち、いわば私の思考は、宇宙視線と人生視線との間を振り子のようにゆらぐのである。

「ゆらぎの理解」に向けて ――二つの「なぜ」に答える

それでは、(1)の「なぜ」には結局どう答えようか。人生視線を採る限り、私たちの倫理の岩盤は、とどのつまり、かつてハンス・ヨナスが指摘したように、「人類存続」である。それは、倫理の枠組みであって、それ自体を倫理的に問うことは基本的にはできない。ただ、宇宙視線を採った場合、その岩盤も揺らぐ。この「ゆらぎの理解」、これをつねに明確に意識しつつ、さしあたり、「人類存続」が倫理の岩盤のはずだ、だからそれを脅かすことは避けるべきなのだ、と答えること、これが(1)への暫定的応答である。

では、(2)の「なぜ」はどうか。これは実は、先に自然科学の外挿について述べたことに連なる問題である。私たちがこの宇宙について把握している事柄は、実は、驚くほど少ない。ここにも宇宙視線と人生視線の二つの様相を絡めると、事態の真相が理解しやすい。宇宙視線を採る限り、私たちには、科学技術の適用について、その結果を予測することはまずできない。しばしば負の問題性が指摘されがちの、ゲノム編集、軍事技術、原子力発電、優生思想、これらの技術や思想が人類存続にとって善いことなのか悪いことなのか、誰も本当には判断できない。逆に、人類存続に有効だと思われている技術や思想、たとえば、がん撲滅、再生可能エネルギー、人権思想、民主主義なども、長い目で見たときに本当に人類にとって福音なのか、それは分からない。私は、こうした不確定性を本質的に包含する問題について論じるとき、一方的かつ独善的な価値評価を断定的にくだす議論には興ざめしてしまう。やはり、誠実であろうとする限り、不確定性を受け入れ、謙虚であるべきではなかろうか。

けれども、他方で、私たちはいま生きており、生命現象に日々直面している。ここで人生視線が現れる。私たちの脳の物理化学的組成がいまのようである限り、人類すべてが鬱的になって一斉に自死しようとすることは、ほぼ考えられない。つまり、いわば本能的に、私たちは生き続ける、存続しようとし続ける。そしてそれは、不確定性の中であっても、もしかしたら間違っているかもしれないとしても、いまこのとき一つのことを決断し、実行していくしかないことを意味する。待ったなしなのだ。そうした人生視線の文脈において、刻々と変わる環境や条件に適応していくために、安全性・有効性について現状で最大可能な確度での技術革新やイノベーションが要請されるのである。それらには、したがって、つねに失敗したり、損害をもたらしたりする可能性が胚胎される。よって、さしあたりであれ、安全性に対する挙証責任は、開発者にあるのか、危険を感じ技術適用に反対する市民にあるのか、といったイノベーションにまつわるお馴染みの問題圏が現出するのである。

しかし、ここでも私は、宇宙視線と人生視線の間の「ゆらぎの理解」が必要なのではないか、と述べたい。私たちがもつごく限られたエビデンスとリゾースを駆使して、人類存続に有効性が高いと思われる方策を全力で開発し、イノベーションを遂げていくこと、しかしつねにそれらは逆効果になる可能性を包含していることを自覚して、「誠実な賭け」を試みていくべきなのであり、それしか倫理的に受容可能な道筋はないのではないか。万全を期して決断し、結果は潔く受け入れる。いわば「高潔さの倫理」である。

かくして、(2)の「なぜ」に対して、私たちや生物の生存を脅かす事態を食い止める方法があると思いがちなのは人生視線だけを採るからであって、真には、宇宙視線との「ゆらぎの理解」を獲得し、「高潔さの倫理」を遂行すべきなのである、と応答できよう。

小文を、壮大な手前味噌で終えたい。私には、イノベーションを推進することは、結局は、上に述べた「ゆらぎの理解」を深めていくことに結びつくように思われる。イノベーションの目的が「人類存続」にあるのだとしても、その上に、宇宙視線と人生視線のゆらぎを深く自覚していくという「高階の目的」があるのではなかろうか。いよいよ哲学の出番である。

参考文献
ハンス・ヨナス 2000『責任という原理』加藤尚武監訳、東信堂。SLukas Meyer 2015. 'Intergenerational Justice', The Stanford Encyclopedia of Philosophy. (https://plato.stanford.edu/entries/justice-intergenerational/)

 

一ノ瀬 正樹(いちのせ・まさき) 
武蔵野大学 グローバル学部 教授

 

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