リカレント教育時代の新しい知とは 実務家教員と社会人教授の違い

社会人教授と実務家教員

実務家教員と似た言葉として「社会人教授」という言葉がある。1990年代初頭に鷲田小彌太氏の書いた『大学教授になる方法』が出版されたことを皮切りに、ストレートにアカデミックキャリア(研究者を志して、キャリアを研鑽する)の道でなくとも、大学教員になれることが示された。

ところで、この社会人教授というのは、昨今注目される実務家教員と同じ概念といえるのだろうか。筆者は、この点について明確に区別をすべきであると考えている。なぜなら、実務家教員という言葉には、社会人教授以上に込められた役割や期待があるためである。たしかに、社会人(大学での教育研究以外の)経験をもっている大学教員という意味では、実務家教員も社会人教授の一種である。だが、『大学教授になる方法』やそれに類する書籍を読んでみると、実務家教員の趣旨とは少し異なっているような違和感を筆者は感じている。

社会人教授と実務家教員の違い

実務家教員と社会人教授は何が違うのだろうか。誤解を恐れず乱暴に言えば、社会人教授は、あくまで社会人としての経験がある研究者教員である。例えば、企業のマーケティング部門に勤めていた人が、物理学への関心が再燃し、大学院理学研究科に進学し学位を取得して大学教員に転身する。この場合は、自分がこれまで築いてきたキャリアや実務経験、実務能力とは関係のない領域の教育研究をする。

他方で実務家教員は、自身の実務実践を軸として指導にあたる教員である。先の例と同じように考えてみると、企業のマーケティング部門に勤めていた人が、自身のマーケティングの実務に関する知見を(学位を取得するか問わず)体系化し、その知見をもとに大学で教える。つまり、自分自身の知見・能力と関連した領域で教育研究をすることになる。ここでは、これまでの実務を兼任しながら教育に携わることもあれば、大学教員としてキャリアチェンジする場合もある。

こうして考えてみると実務家教員と社会人教授の違いは、自らのキャリアを活かした、いいかえればキャリアと連続した教育研究を行っているかどうかにあると言えるだろう。

自らを対象にする実務家教員

実務家教員と社会人教授の違いが自らのキャリアと教育研究の連続性だとすると、教育研究の内容である知の生み出し方も異なってくる。

先にあげた例の社会人教授はマーケティングの実務をもっているが、教育研究の対象は「学」である。研究を行う主体としての社会人教授は、自身の実務経験や実務能力から離れ、研究の対象(客体)である物理学を研究するのである。この点は、いわゆる通常の研究と相違ない。

ところが、実務家教員ではどうだろうか。実務家教員はマーケティングの実務を有していて、その自分自身が持っているマーケティングの経験・能力をもとに教育研究するのである。いいかえれば、自分自身が研究対象となっているわけである。ありていに言えば、客観性が担保できる状態ではない。自分自身を研究対象として、自分自身以外の人間にも通用する知識を作り出すということが実務家教員に課せられている。そのためには「実務経験を自己観察して知識を生成する」という新たな知の方法論が必要になる。

そう考えると、そもそも実務家教員と社会人教授(ひろくは研究者教員)では、根本的に知識の生成構造が異なる。知識の性質が異なるのだから、実務家教員と社会人教授に課せられている役割も大きく異なってしかるべきだろう。

実務家教員の定義

実務家教員は、次のように定義できるのではないだろうか。すなわち「自分の実務経験・実務能力を基盤として、(大学などの高等)教育機関で、教育研究にあたる者」である。実務家教員が実務経験・実務能力に依拠しながら教育機関などで教育研究に取り組むためには、第三者にも通用する知識を構築し、教授しなければならない。また、そうした働き方は大学などの高等教育機関でまず話題となったが、現在は初等中等教育機関でも必要とされている人材である。