「情報発信」と地域創生の可能性 地方の構造的課題に挑む

結婚や転勤、介護など家庭の事情から、意図しない形で地方移住を経験する人は少なくない。滋賀県高島市でPR・広報事業を手がける合同会社coreを立ち上げた田中可奈子氏も、そうした経験を持つ一人だ。住民自らが「何もない」と語る消滅可能性自治体で、田中氏は情報発信事業をスタート。行政と連携しながら、新たな事業の可能性を切り拓いてきた。 地方における官民連携の担い手として活躍する田中氏に、地方移住の現実と、“本当の豊かさ”を模索する地域創生の可能性について聞いた。

合同会社coreを立ち上げた田中可奈子氏


── 滋賀県高島市に移住された経緯について教えてください。

正直に申し上げると、決して前向きな移住ではありませんでした。主人の転勤に伴う引っ越し、実家への帰郷、そして出産が重なり、私としては「余儀なくされた移住」という側面が強かったと思います。

東京では、資生堂のウェブ推進室で新ブランドサイトの校閲や情報整理を担当し、その後は角川の「東京ウォーカー」でプレスリリースをの選別・リライトなど、メディア業界で情報発信に関する業務に携わっていました。自分のスキルを活かせる仕事に就いていた環境から、突然「地方での主婦業」に転換するという、大きな変化でした。

地方では、特に子育て中の身として、自分の経験やスキルを活かせる職を見つけるのは本当に難しい。というより、ほとんど存在しないという現実がありました。 当初は趣味の延長線上で何かできないかと模索していましたが、次第に「やっぱり、私は情報発信を通して社会とつながっていたい」という思いが強くなっていきました。

── 「たかしまがじん」というメディアを立ち上げるきっかけは何だったのでしょうか。

高島市に移住してまず感じたのは、「情報がまったく入ってこない」ということでした。地元の方に「高島って何がありますか?」と聞いても、「いや、何もないよ」「なんもないとこだよ」とみなさんが口を揃えておっしゃる。しかしでも人とつながり出すと、実は“何もない”わけではないと気づきました。むしろ、地域の中には当たり前のように存在している魅力や活動がたくさんある。でも、それらが伝えられていないだけなのです。

これは、地方が抱える構造的な課題だと感じました。滋賀県にもローカルメディアはありますが、高島市は琵琶湖の北西に位置していて、県の中心部からは物理的にも心理的にも“距離”がある。どうしても県域メディアは中心部の話題を優先しがちで、高島は情報の「空白地帯」になっていたのです。

「ないなら自分で作るしかない」。そう思ってスイッチが入りました。 情報を待っているだけでは、誰も届けてはくれない。ならば、自分で種をまき、耕すことが大事だと考えました。「たかしまがじん」というメディアは、そんな思いから始まった、私にとってのスタートラインです。

── どのようなビジネスモデルを掲げていますか。

正直、収益化にはかなり苦戦しました。地方は大企業よりも中小企業、個人経営、あるいは自宅でお店を営んでいる方が多く、広報や広告に予算を割くという発想そのものが、あまり根付いていないと感じました。また、「他より目立って売上を伸ばしたい」というような、都市型のビジネスマインドを持つ方ばかりではなく、地域に根ざした生活を大切にする方が多い。そうしたなかで、都心的な情報発信の手法をそのまま収益化につなげるのは難しいという現実に直面しました。

しかし、辞めずに続けていくうちに、少しずつ行政とのつながりが生まれてきました。最初は、「自分が情報を発信し、その掲載先から対価を得る」というシンプルなビジネスモデルを描いていたのですが、次第に「価値を提供する相手」と「お金を支払う主体」が一致しないケースがあるという構造を理解しはじめました。 たとえば、たとえば、商工会から「このイベントの広報をお願いできませんか」といった依頼を受けるようになり、そういった協働を通じて事業の幅が広がっていったんです。

── 現在の行政との協働について、どのような課題を感じていますか。

一番の課題は、地方における「官民連携の担い手」が圧倒的に不足していることです。知識やスキルを持ち、フレキシブルに動ける市民の数は非常に限られています。

私の場合、メインは広報PRですが、それにとどまらず、自治体のイベント広報や地域プロジェクトの情報発信など、さまざまな業務を「パラレルキャリア」として担っています。東京で培った情報発信のスキルが、今では行政の広報課題解決に直結しています。

収益になること、ならないことを自分の中でバランスを取りながら対応できる体制があるので、“動ける人材”としての役割が求められているのだと思います。

予算がついたプロジェクトであれば、外部人材として参画することが可能で、人件費を事業費からいただくこともあります。ただし、行政との連携では、最初から「この

金額でお願いします」と明確に契約することは少なく、走り出してみないと予算が確保されるのかどうか分からないという難しさもあります。

── 地方での生活を通じて、価値観に変化はありましたか。

最初の頃は「ないもの」ばかりに目がいっていました。全国展開している雑貨店もない、ボウリング場も映画館もない――そんな環境に不安や不満を感じることも正直ありました。 しかし、ある時ふと気づいたのです。「なくても、生きていける」ということに。

つまり、必ずしも“揃っている”ことが豊かさではないのですね。 必要なものは、自分が本当に欲しいと思うものに対して、能動的に、積極的にお金や時間を使う。その姿勢にシフトしたことで、暮らしの質が変わっていきました。

東京では、歩いているだけで次々と新しいお店や情報に出会い、欲しいものはお金を出せばすぐに手に入る環境がありました。しかし地方では、自分から探して、調べて、わざわざ足を運ぶ。そうしなければ、モノも情報も身近にはなってこない。 だからこそ、自分の選択や行動が生活を形作っていく――そんな実感とともに、今では「とても豊かな暮らしをさせてもらっている」と感じています。

── 地方創生の可能性について、どのようにお考えですか。

地方は確かに課題だらけです。しかし、だからこそ一人の力がものすごく大きな意味を持ちます。たった一人が動いただけでも、それが波紋のように地域に影響していく。その可能性が、地方にはあります。最近では、関西圏から日帰りで来られる距離ということもありで、二拠点居住として高島市を選ぶ人も増えています。

土地や空き家が安価で手に入りやすく、都市部では叶えられない暮らしや働き方を実現している方も少なくありません。

そういった方々から改めて高島の魅力を聞くことも増えてきて、外部からの視点の大切さを実感しています。人生100年時代。働き方や生き方も多様化するなかで、「地方」というフィールドは、自分の可能性を試せる舞台だと思います。 何かを“与えられる”のを待つのではなく、自分で何かを生み出したい人、やりがいを感じたい人にこそ、地方はおすすめです。

── 今後の事業展開についてはいかがお考えですか。

私自身の軸は、「情報」やその「背景にあるストーリー」を伝えることで、地域や挑戦する人たちが潤い、前進できるように支援することです。

現在は行政からのお仕事が多いですが、行政はどうしても予算の縛りがあります。長期的・安定的に関わり続けるには限界がある。だからこそ今後は、中小企業のPRサポートをより積極的に進めていきたいと考えています。

「お金になること」と「本当はやりたいけれど、利益が出にくいことのバランスを大切にしながら、事業としての持続性と、地域貢献の両立を目指しています。具体的には、企業からの仕事で得た収益を使って、地域での勉強会やコミュニティ支援を継続できるような仕組みを整えたい。それが、私の描く“持続可能な循環”です。地方には制約も多いですが、その分、一人の挑戦が地域を変える力になる。こうした仕組みづくりを事業構想として描いています。