出会いで人生は変わる 大きな夢を掲げて臆せず飛び込むことが成功の鍵

長崎市三原で生まれ育った石原和幸。爆心地から近いこの町で、両親は共に被爆。それでも残った家族や地域の為に農業や酪農を営み、働き詰めに働く父の背を見て育ったという。父の力になりたくて始めた小さな花屋から、今では世界最高峰の花の祭典、チェルシーフラワーショーでゴールドメダルを12回受賞する世界的な庭園デザイナーへと躍進。現在は地方創生にも尽力している。

文・油井なおみ

 

石原 和幸(庭園デザイナー)

23歳までに身につけた
「商品は自分自身」という感覚

「僕が幼い頃はこの辺りは棚田で、めだかやなまず、えびなどがいっぱいいたんです。6月頃には蛍が舞い、7月には赤とんぼが空一面を染める。そんな美しい景色が広がっていました」

1958年に、ここ長崎市三原で生まれた石原和幸にとって、昔の故郷の景色は今も庭づくりの原点となっている。

「棚田が遊び場で、耕うん機の運転も得意でした。それで本田技研の方に『才能がある』と誘われ、15歳からモトクロスのレースを始めたんです。新聞奨学生で大学にも通いました」

そんな多忙な生活の中、今のビジネスに繋がるヒントを見つけたという。

「普通は新聞を契約してくれたら洗剤などをプレゼントしますが、人と同じことをしても仕方がない。まず自分のことを知ってもらう為、地域の方々に自己紹介をして回りました。新聞奨学生で僕が配達します。さらに、3カ月後、授業料の納期なんですと。僕のことを知ってもらった上で泣き落としじゃないですけど(笑)。次第に差し入れやお年玉をいただくようになり、新聞の契約も増えていきました」

プロレーサーを目指していたが20歳で近眼に。別の道を探すこととなる。

「地元の自動車会社に入社しましたが、その頃、地元の棚田が団地になっていき、牛は臭くてうるさいからと父は酪農を辞めざるを得なくなったんです。代わりに生け花用の花や桜などの花木を植え、市場に売っていました」

父の手伝いをしたい。そう思った石原はまず生け花を習い始めた。

「すぐに生け花の魅力に引き込まれ人生を花に賭けようと決意しました。それで近くで路上販売している花屋に無給で弟子入りしたんです。ライバルは両隣で路上販売をしている八百屋や魚屋。晩のおかずを買いに来るお客様にどうやって花を売るかです。ここで花の値付けの他、お客様への声掛けや惹きつけ方を学びました。大事なのは自分を知ってもらい、好きになってもらうこと。商品は自分自身なんです」

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