法律の実践知からみる 知識の制度と社会構造

知識の構造変化

前回は反省理論の枠組みを使いながら、知識の制度について考えてきた。筆者の問題関心は知識の制度が社会構造と相関しているのではないか、という点である。社会の構造は、現代社会になると身分的な階層的分化から社会の機能ごとに分化する機能的分化へ移行した。知識を生み出す科学システムも、これまでヒエラルキー的な知識の構造であったものから、専門分野(それぞれの知識内容)の構造へと移行している。知識のヒエラルキーとして存在した「哲学は神学の端女」と呼ばれる神学を頂点とした階層分化から、専門分野の分化に変化する。このように知識の制度と社会構造が相関していると捉えている。

法律の反省理論

私たちが一般的に考えている法律学は、科学システムのなかで物理学、生物学、社会学、政治学、経済学...のように分化した専門分野の一つであると考えられる。科学システムは、専門分野にもとづいた専門知を産出することを社会的機能として担っている。法律学は、法に関する知識を生み出すものである。知識とは何か。ドラッカーにならって、社会的、経済的成果を実現するための手段であると知識を定義してみよう。知識が社会的成果を生み出すためのものであるとしたら、社会システム論の文脈では、システムの再生産に寄与していることが知識の役割となる。機能システムと知識の定義を組み合わせれば、法律学から生成された知識は、新たな法律学的専門知を生み出す成果につながるが、法律学的知識は法的な成果を生み出すものではない。

他方で、法システムと法学はどのようにかかわっているのだろうか。法システムは、法律というプログラムを適用させて、合法/不法というコードで作動している。その作動の結果、法を適用させ法の安定性が実現されている。裁判が行われて判決が下されるとき、まさに法システムが作動しているといえる。裁判が行われるとき、法曹――とくに裁判官――は何をしているのだろうか。法曹は自らの実務を遂行するために、おそらく学問としての法律学としての学説や学理を探すのではなく、これまでの裁判例から適切なものを探してくる。

法律学は法源になるのか

すなわち、法律学は法源にならない。ここでいう法源とは、裁判官が裁判をする――法システムの作動――基準になるものである。法的安定性を確保するため、判例を尊重し法解釈を行うことがある。我が国の慣例では、学理・学説は法源として採用されることはない。学説は、実際には、裁判にかなり大きな影響を及ぼしている。歴史的には、古典時代のローマのように、学説が法源として公に認められたこともある。しかし、現在では、学説は、直接に裁判の基準とされるわけではなく、法の解釈を通じて裁判に影響を及ぼすものと考えられる。したがって、学説は制度上も、事実上も、法源とはいえない。すくなくとも、法曹が法的思考の参考にすることはあるが、解釈として必ずしも従わなければならないものではない。国際司法裁判所では、有力な法学説を法源として認めている1)

科学システムにある法律学は、法システムの作動の根拠にならない。すなわち、これまでの裁判記録を振り返るということは、これまでの法システムの作動を反省(=自己観察)していることになる。その反省の結果、自らの実務――法システムの作動――に適用させていることになる。法システムの作動を自己観察することで、いかにして法システムを作動させるのかという成果に結びつけている。こうした自己観察した知のあり方を反省理論と呼んでよかろう。法システムの反省理論は、法システムの作動を実現する実践知と呼びうるものである。法システムの反省理論は、前提となるものを否定しない。反省理論たる法解釈学は、法システムが維持されることが前提となる。だから「人のものを盗ったら、罰せられる」ことは正しいか/正しくないかということは議論されない。法システムがこれまでどのような作動をおこなってきたのかを、自らに当てはめている。つまり自己観察した結果を、自らに当てはめて法システムを再生産していることになる。

1)国際司法裁判所規定第38条