バブル崩壊前後のVC投資 北海道発のスタートアップの上場支援

日本テクノロジーベンチャーパートナーズ(NTVP)の村口和孝氏のキャリアから、日本のVC史を振り返る本連載。2回目は、バブル崩壊から数年後にIPOした、北海道発の企業のケースを分析する。現在は調剤薬局業界第1位の座を占めるアインホールディングスの前身、第一臨床検査センターの事例だ。

連載第1回では日本のVCの黎明期を振り返り、創業からかなり時間が経過した企業に投資するという、米国とかけ離れた当時の日本の投資スタイルを確認した。そのVCの代表的存在であった日本合同ファイナンス(以降JAFCO)に村口和孝氏は新卒として飛び込み、米国型の投資を理想として、1980~1990年代に多くの投資案件を発掘した。

新卒でのVC就職と
投資先候補を挙げ続けた新人時代

村口氏が就職先として選んだJAFCOは日本のVCの先駆けであったが、1984年当時は、あまり人に知られていない金融機関であった。金融業の老舗である銀行や証券、保険会社と比べるべくもない。そこでなぜ、そこを就職先として選んだのか紹介しておきたい

同氏が大学で経済学を学びつつ、米アップル社の上場に刺激を受けていた頃、野村証券のグループ会社として設立されたJAFCOというベンチャーキャピタル(VC)を知った。「将来、VCは重要な産業となるかもしれない」と大学のゼミの教授の言葉にビビッときたという。夏休みにJAFCOで市場調査のアルバイトをした村口氏は、担当者がVCの将来性に期待していない態度を見て失望した。しかし、シリコンバレーを紹介する本を読んで触発され、一念発起して米国に飛び、サンドヒルロードに並ぶVCを訪ね歩いて対話をし、VCへの就職を決めた。当時、日本における活発なVCはほぼ、JAFCOのみだった。選択肢はない。100人に満たない小さい金融機関に入社することになった。

本社勤務をした新入社員時代は、投資先を開拓するために、毎日50件の電話攻勢と3件の会社訪問に明け暮れた。JAFCOは創業まもない企業を投資対象にしていなかったが、村口氏はそれらもターゲットにして、とにかく経営者に会いに行った。同期や先輩の中で集めた名刺の数はダントツであった。

そのころ同社の投資対象が、かなり成長したミドルステージかレーターステージの企業だったのに対して村口氏は異論を唱えていた。「実績のない会社に投資して産業を育てなかったら、本来のVC投資ではない」と、上司に果敢に議論を挑んでいた。社内会議を嫌ってひたすら外を歩き回る村口氏は投資先候補を山のように投資委員会に挙げていった。「一定の管理体制と売上規模があれば、すべての企業が上場できる」とすら考えていたからだ。多くは投資委員会に否決されたものの、OKが出た案件のいくつかから後年、成長企業が生まれることになる。

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