0.17点差で五輪を逃す 元フィギュアスケーターが歩む第二の人生
日本フィギュアスケート界で記憶に残る激戦といえば、バンクーバー五輪シーズンの全日本選手権。すでに五輪代表の切符を手に入れた安藤美姫選手を除く、残り2名を決める重要な大会で、たった0.17点差で苦杯をなめた選手がいた。「世界一のドーナツスピン」と評された中野友加里。引退後は就職活動で決めたテレビ局に就職した。二児の母となり退職した今も仕事への思いは強い。
文・油井なおみ
夢の五輪を目の前にして
プレッシャーに負けた現役時代
3歳からフィギュアスケートをはじめ、いつかは五輪に。
そう思い続けた中野友加里が、最初に五輪への切符を掴みかけたのが、2006年トリノ五輪の頃。当時20歳だった中野は、出場する大会ごとに自己ベストを更新。「スケート人生でいちばん波に乗っていて楽しい時期」だった。当時は無名の選手だったというが五輪の補欠に選出された。
「いつかは出てみたい」という漠然とした夢だった五輪がこのとき、「次のバンクーバーに出場する」という確かな目標に変わったのだった。
「そこからの4年は思いのほか長かったですね。トリノの翌年から記録が伸びなくなったんです。それまで続けてきた練習量をこなすと、けがに繋がるようにもなり、思うように練習もできなくなりました。辛い日々でした」
次の五輪代表の座を掴み取るには、自分を超えていかなければならない。かといって、必死に練習すれば故障をする。過去の自分という壁に押し潰されそうになりながら、練習中はもちろん、たまのオフに映画を観るのもスケートでの演技の為。ショッピングに行くのも次の衣装へのアイデアを得る為。ただひたすらスケートの為だけに日々を積み重ねた。
そして、五輪出場を賭けた2009年全日本選手権の1週間前には、自らの演技を1点のミスもなく完璧な形に仕上げていた。
「それでも、『オリンピックに出られなかったらどうしよう』と不安要素ばかりが頭に浮かんで、ここぞというときに、普段の気の強さが出せませんでした。21年間、オリンピックに向けてひたすら駆け上がってきたのに、出たいという思いが強すぎて、最後は不安やプレッシャーに負けてしまったんです」
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