未来型ユニバーサル工場で、働きがいと高付加価値なものづくりを両立

主要製品である制御機器用のリレーソケットや各種スイッチを、障がいのある社員と障がいのない社員が一体となって生産しているオムロン太陽。多様である人の個性に合わせるための様々な創意工夫によって、働きがいと付加価値の高いものづくりの両立を実現させてきた。

立石 郁雄 (オムロン太陽 代表取締役社長)

障がい者には保護ではなく機会を

オムロン太陽は50年前の1972年、障がいのある人の自立や社会進出を目指して設立された。その経緯は、大分県別府市出身の医師であった中村裕博士が、1965年に故郷の別府市に設立した「太陽の家」にさかのぼる。

中村博士は九州大学医学部を卒業後、整形外科医となり、イギリスに留学。同地では障がいのある患者と接する機会も多くあったが、事故や病気などで身体に障害を持った人も、海外ではリハビリをして仕事に復帰している人が多いことに驚いたという。当時の日本では、障がい者は社会福祉の仕組みで国が保護する対象であり、企業などで働くことは全くの非常識だった。それに疑問を抱いた中村博士は、「No Charity, But a Chance(保護ではなく機会を)」を掲げ、障がい者も仕事を通じて社会に貢献する場を提供することが、生きがいや幸せにつながると確信。中村博士は1964年の東京オリンピックにあわせてパラリンピックを開催することに尽力し、「パラリンピックの父」とも呼ばれるようになるが、中村博士が1965年、リハビリをしながら仕事ができる場として設立したのが「太陽の家」だった。

障がい者が安定して働ける場を確保するにはパートナーとなる企業が必要で、中村博士は、太陽の家で障がい者がする仕事を出してくれる企業を探すために奔走した。そうした中で、中村博士はオムロンの創業者である立石一真氏と出会う。立石氏は中村博士の理念に共感し、オムロンと太陽の家の共同出資会社として、太陽の家の隣接地にオムロン太陽(当時はオムロン太陽電機)が設立された。

最もよく人を幸福にする人が
最も良く幸福になる

立石一真氏の当時の心境を、同氏の孫でオムロン太陽の現社長である立石郁雄氏が、創業50周年記念式典で語った。

「立石一真は50年前の創業式で、重度の障がいをもつ社員を目の前にして気が重く、心配であった、と書き残しています。しかし、創業式の挨拶で壇上に立って5分もしないうちにそのことはすっかり忘れていた、といいます。それは、社員たちが意欲にみなぎった顔であったこと、工場が実に明るかったからだといいます。これは、中村博士の『心身に障がいはあっても仕事に障がいはない、障がい者は保護者ではなく労働者である』という言葉に集約されていると思います」

オムロン太陽は創業時より黒字で、事業としても自立していた。仕事は障がい者に喜びと生きがいを与えたのだ。

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