100年ぶりの家業再興 たたら製鉄を起点に「山」の再生に挑む

良質な砂鉄と森林資源に恵まれた奥出雲地方は、日本古来の「たたら製鉄」が盛んな地域だった。大正末期にその灯火が途絶えて約100年、地域創生を目指して今、再びその文化が蘇りつつある。復興プロジェクトを牽引する田部代表取締役社長の田部長右衛門氏に、その狙いを聞いた。

1460年にたたら製鉄を
開始し、地域とともに繁栄

鎌倉時代に紀州熊野から吉田村(現在の雲南市吉田町)に入部した田部家は、11代にわたって武士を務めた後、1460年に同地でたたら製鉄を開始した。田部家の記録によれば、初代彦左衛門が夢のお告げにより、川砂鉄を採取して製鉄を始めたとされている。山深い奥出雲地方は良質な砂鉄と森林資源に恵まれていることから、約1400年前から日本古来のたたら製鉄が盛んな地域であり、そこに田部家が新規参入したことになる。「たたら」とは元来、炉に風を送るふいごを意味したが、やがて製鉄法全体を指すようになった言葉だ。

「製鉄ができなくなった戦国時代、田部家は一時期吉田村を離れましたが、江戸前期に戻って製鉄を再開しました。松江藩を主な顧客として栄え、10代のときに『長右衛門』の名を授かります。12代長右衛門は1755年、鉄師(たたらの経営者)頭取に任命されました。1800年代初頭は、年間の操業回数が平均87回(1回の操業が3昼夜)と、ほぼ毎日操業していたほどの盛況ぶりでした」と語るのは、2015年に長右衛門を襲名した第25代当主の田部長右衛門氏だ。

田部 長右衛門(田部 代表取締役社長)

幕末から明治期にかけての最盛期には2万5000ヘクタール(現在の大阪市と同じ広さ)の山林のほか、田地1000ヘクタール、小作1000戸、牛馬1000頭などを所有していた。当時、奥出雲エリアは日本全体の鉄の需要の8割を賄ったとも言われ、田部家とともに吉田村は企業城下町を形成して繁栄した。

田部家の江戸時代のたたら操業施設「菅谷高殿」

しかし、明治時代に入ると安価な洋鉄の輸入により、和鉄は急速にその地位を失っていく。たたら製鉄も大きな影響を被った。田部家は1921年、鈩鍛冶屋の事業を半減して補足事業として普通木炭の生産を始めたが、大正末期の1923年に廃業。20代まで続いた田部家のたたらの火は消えた。

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