別子銅山、300年以上続くイノベーション 愛媛県新居浜市
別子銅山を中心に住友の「企業城下町」として300年以上、持続・発展してきた愛媛県新居浜市。その歴史をひも解くと、絶え間ないイノベーションの連続であったことがわかる。
愛媛県新居浜(にいはま)市は、瀬戸内海沿岸に位置する工業都市で、住友グループの「企業城下町」としても知られる。非鉄金属、化学、機械産業が主要産業で、市内の製造品出荷額は7,024億円となっている(2017年工業統計調査)。その多くを、住友金属鉱山、住友化学、住友重機械をはじめとする住友グループ各社、関連する産業によって占められている。
新居浜市は江戸初期からの別子銅山を中心とした鉱山開発とその周辺事業によって繁栄してきた。1973年の閉山からすでに45年が経過しているが、閉山を乗り越えて事業を継続している。他の鉱山では、閉山を機に地域経済産業が衰退していく例が多い中、新居浜では、新規事業開発によって、それらを乗り越えてきた。その歴史を探ってみたい。
海外の高度な製錬技術を国産化
住友家は戦国時代末期の1590年に京都において銅製錬をはじめたのがルーツである。「南蛮吹き」という銅と銀を分離する高度な製錬技術を海外から導入して、国内で実用化に成功したのが住友家である。それまでは、日本から銅を輸出する際、技術不足のために、銀が含まれたままの銅を輸出していた。そのため日本は多大な損失を出していた。住友家の新技術導入によって、日本は銀を含んだ銅を輸出することがなくなり、経済的損失を防ぐことができた。
住友家は1630年に京都から大坂(大阪)に移転し、銅貿易、輸入業、両替商と、業務内容を拡大した。第3代住友友信の時代には、岡山県の吉岡銅山の経営を始めた。吉岡銅山は古い歴史を持つ銅山のために採掘量が減少していたが、坑道の排水工事を行うことで、より深い地点からも採掘することが可能になり、生産量が飛躍的に向上した。それらの功績により幕府からも信頼を得ることができたのであった。
1690年に新居浜の山深くに発見されたのが別子銅山。住友家は他にも競合がいるなかで、幕府からこれまでの実績を認められて、翌1691年に銅山経営を許可されたのであった。別子銅山は1698年に1,521トンの銅を産出するなど当時の日本国内では最大規模の銅山であった。また、その年の日本の銅輸出量は5,400トンと世界で最も多くの銅を産出する国であった。
明治維新によって、別子銅山は新政府から没収の危機にさらされたが、これまでの銅山経営の実績が認められて、引き続き住友家が経営にあたることとなった。
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