近代交通のパイオニア鉄道インフラの150年

日本で最初の鉄道が新橋-横浜間に開業したのは、1872(明治5)年。明治の末には、ほぼ全国に幹線網が完成されるほど急速に普及・発展を遂げた。その後も、戦後の高度経済成長など、時代と呼応するように成長を続け、 近年では日本の新幹線技術の海外輸出なども注目を集めている。

ヨーロッパで蒸気機関車が誕生した当時、日本はまだ江戸時代。そこから明治維新を経て、人々は鉄道とどう向き合い、先進国に追いつき追い越すほどの技術力を持つまでになったのか。そして、鉄道の存在は世の中にどのような影響を与えたのだろうか。

日本有数の鉄道資料を有する博物館を訪ねた。

国内外の鉄道事情を語る学芸員の奥原哲志氏。

 

 

――明治以降、日本に導入された鉄道技術は、どのように人をつなげ、移動の全国ネットワークを強めたのでしょうか。

人々の移動手段が、徒歩か籠、馬しかなかったところへ、鉄道は、速度、輸送力が桁違いのまったく異質な交通機関として登場しました。東京から横浜まで徒歩で1日かかっていたのが、開業当時の鉄道で53分。貨物も運べる量が圧倒的に増えた。当時の感覚では革命的なことだったと思います。

建設にあたっては、イギリスから援助・指導を受けました。開業当初はヨーロッパの鉄道ほどの輸送力はなく、当時のイギリスの植民地と同じ規格のレール幅を採用しました。明治の末になると、全国に主要な鉄道が整備。中央集権を目指していた明治政府は、国内各地を鉄道で結び、国としての一体感を高めることを強く意識していたようです。

その後も、都市化が進み重工業が発達した大正時代後半、海外進出に伴う輸送力の増加した昭和10年代、そして、戦後の高度経済成長期など、時代に合わせて利用者数、輸送力がジャンプアップしていきました。鉄道の歴史と経済、産業の動きは不可分の関係です。

昭和初期の中央線のダイヤグラムを見ると、早朝4時台から深夜1時まで、2分に1本の間隔で運行している。今と大差ないほど。それだけ利用者がいたということでしょう。この高頻度な運転を支えようと、車体より低い位置にあったホームの高さを列車の高さに合わせたり、一両に2カ所しかなかった扉の数を増やしたり、利用客が効率よく乗降し、スムーズに運行できる様々なノウハウを築いてきました。

――交通インフラとしての利便性だけでなく、鉄道網の普及は当時の人々にほかにどのような影響を与えたのでしょうか。

一つは、当時の人々の身分意識を変えたこと。所定の料金を払えば身分に関係なく利用できる鉄道は、「四民平等」という江戸時代の身分制度を廃止する際に明治政府が掲げたスローガンを体現する存在でした。永井荷風も『銀座』という随筆の中で、新橋停車場の待合室について、「最も自由で最も居心地よく、あらゆる階級の男女がいる」と綴っています。

さらに鉄道は人びとの時間意識をも変えました。江戸時代までは、一日を12に分け2時間単位で考える生活を送っていました。太陰暦ですから季節によって時間の長さも変わる時代。それほど時間に対してシビアではありませんでしたが、鉄道の登場により、出発時間に合わせて駅に行く、時間に従って行動するという習慣づけがなされたようです。鉄道とあとは軍隊、この2つが日本人の時間感覚に大きな影響を与えたと言われています。

――高度成長期を経て高速鉄道の時代、新幹線が果たした役割についてはいかがでしょうか。

東海道新幹線が開業したのは1964(昭和39)年。着工から開業までわずか5年という早さでしたが、その背景には先人たちの遺産がありました。

日本の鉄道のレール幅は1067㎜、国際標準から約40㎝狭い、狭軌でスタートしました。明治時代後半から、「輸送力が上がり、安定して速度を出せる広軌に改良しよう」という声はありましたが、政争の具となり頓挫しました。

1939(昭和14)年、東海道本線と山陽本線の輸送力不足に対応するため、別線の広軌新線建設と高速列車運行が計画され、実際に用地買収や一部で建設工事が進められました。いわゆる「弾丸列車計画」です。しかし、太平洋戦争の影響で建設は中止に。ただ、その際に検討した線路・車両の規格や、買収済みの用地、着工したトンネルなどが、戦後の東海道新幹線建設の際に活かされたのです。

当時欧米では飛行機や自動車の発達により、鉄道はこれ以上伸びないと言われており、日本の世論も冷ややかでしたが、当時の国鉄総裁、十河信二氏の「新しい規格の新しい高速鉄道が今後の鉄道、経済・社会の発展のために必要になる」という信念のもと、多くの逆境を乗り越え開業に結びつけました。

特急で6時間30分かかっていた東京-大阪間が、東海道新幹線では3時間10分(当初は4時間)と、約半分の時間で移動できるようになりました。それまで同区間は特急が8往復運転されていたのが、東海道新幹線は30往復。そんなに利用者がいるのかと心配されましたが、蓋を開けたら増発を繰り返すほどに利用者が激増しました。優れた交通インフラは人や物の動きを呼び起こすのです。

新幹線は高度成長を促す起爆剤になり、斜陽産業と言われていた鉄道にも生き残る道があることを世界に示した。フランスのTGV、ドイツのICEなど、日本発の技術が世界に影響を与えたのです。

現在当館には、日本初の新幹線車両0系をはじめ3両を展示。7月オープンの新館には、400系とE5系から明治初期の2両が展示される予定です。

鉄道博物館に展示された1号機関車。

――リニューアルに合わせた4月末からの企画展「明治150年記念 NIPPON 鉄道の夜明け」の見所についてお聞かせください。

この企画展では、幕末期から明治初期における日本人と鉄道の関わり、建設時に尽力した外国人たち、その後日本人の自立による鉄道技術の進化など、鉄道への知識がない中、どう資金を調達し、技術を学んできたかなどについて紹介しています。

工部省鉄道局の井上勝局長は、早い段階から人材育成に力を入れました。工技生養成所を設置し、路線の建設、車両の設計・製造、列車の運転など、それぞれの部門の技術者を養成。1893(明治26)年には国産第1号の蒸気機関車が誕生、明治の末にはほぼすべての分野で技術的な自立を果たしています。他国の技術を身につけるだけでなく、努力を重ね、日本独自の工夫で発展してきた日本の鉄道。明治150年という節目に、その歴史に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

 

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