薬局経営が思わぬヒントに 健康食品「黒酢」の生みの親を訪ねて

ドラッグストアや量販店で身近に見かける「黒酢」。今でこそ健康食品として当たり前のように店頭に並んでいるが、かつては、鹿児島県の一地域で調味料として使われるに過ぎなかった。伝統的食文化を全国に広めたキーパーソンを訪ねた。
取材協力:リンカーズ

 

桜島を望む坂元醸造の「壺畑」

200年の歴史を誇る福山の米酢造り

穏やかな錦江湾にぽっかりと浮かぶ桜島。鹿児島県の象徴である桜島に向かって、天日にさらされ黒光りした無数の壺が幾何学模様を描いている。霧島市の南端に位置する福山町で見られるこの風景は「壺畑」と呼ばれ、壺の中には「黒酢」が生きている。

壺を使った米酢造りの歴史は、およそ200年前の江戸時代後期に遡るが、「黒酢」という言葉は、坂元醸造の現会長である坂元昭夫氏によって、1975年に命名された。

現在、数ある黒酢メーカーの中でも、坂元醸造は江戸時代から続く製法を頑なに守り続けてきた壺づくり黒酢メーカーの先駆的存在であり、それまで調味料として使われていた壺酢を、健康食品「黒酢」として打ち出し、全国的なブームを巻き起こした立役者だ。

福山町で黒酢が製造されるのには理由がある。三方を約2万5千年前にできた姶良カルデラ壁に囲まれた福山町は、霧島山麓から伝って来た豊富な地下水に恵まれており、その品質は、薩摩藩時代に「廻りの水」と呼ばれたほど、県内随一の銘水として折り紙つきだ。年間を通じて温暖な気候で、18.7℃という年間平均気温は、黒酢の製造に欠かせない微生物の発酵に適している。

また、古くから交通の要衝であった福山港には、大隅半島からの上納米が全て集積され、船で鹿児島へ運ばれていたことから、原料となる米が比較的容易に手に入った。さらに、容器となる薩摩焼の壺を藩内で製造していたことなど、様々な好条件が黒酢造りに適しており、一大産業となった黒酢造りは時間とともに地域の伝統となっていった。

坂元 昭夫(坂元醸造 代表取締役会長)

薬局経営での気付きから産声をあげた「黒酢」

しかし、伝統的産業に危機が訪れる。太平洋戦争前には24軒あった醸造所が、戦前戦後の米不足や合成酢の台頭により、次々と廃業へ追い込まれていった。

そんな逆境の中「この福山の伝統文化を絶やしてはならない」と唯一、伝統的製法を頑なに守り続けてきたのが、昭夫氏の父、4代目の坂元海蔵氏。原料の米が手に入らない時期は、サツマイモで代用してまで壺酢の製造を続けてきた。

「父からは家業は継ぐなと言われていたので、九州大学医学部薬学科(現在の薬学部)卒業後、製薬会社に入社しました」と昭夫氏。その後は鹿児島に帰郷、大学時代の先輩の多くが働く国立鹿児島病院の隣で薬局を開いた。そこで初めて、父・海蔵氏が造った壺酢の販売を始める。国立病院の患者にも飲用を勧めたところ、しばらくすると患者の間で「血圧が下がった」、「五十肩が治った」など、絶賛の声が次々に届いた。

黒酢の製造に必要なものは原料と太陽エネルギーのみ。坂元会長は「二十一世紀型の産業」と胸を張る

「元々、壺酢が身体に良いことは経験的に分かっていたのですが、ここまで効果があるとは思っていませんでした。そして、あまりの反響に、本格的に壺酢を研究することを決意したのです」と昭夫氏は当時を振り返る。

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