農業を一大産業にした「沖縄産業のパイオニア」儀間真常

“琉球五偉人”にして“沖縄産業の父”。明国からサツマイモ栽培や製糖の技術を導入し、沖縄産業の礎を築いた儀間真常。飢餓から多くの人命を救ったその事業構想力とは

新しい産業がうみだされるには、いつの時代でも「一定の条件」が備わっていないと始まらないようである。それは江戸時代においてもまたそうだ。かつて中国から琉球にもたらされた「甘藷」は、ひとりの男の手によって、試行錯誤のすえ、栽培に成功する。当時、琉球の人々は飢餓に喘いでいた。琉球で「ガシ」(餓死)とは飢饉のことをさした。頻繁にやってくる台風のため作物が育たない。「慢性的な飢えをどう解消するか」これが当時最大の関心事だった。

人々が求めていたものは災害に強い食糧の確保である。やがて栽培に成功した甘藷は薩摩へと渡り、「サツマイモ」と呼ばれるようになり、琉球と同様に、薩摩の人々を飢餓から救った。さらには関東へと渡り、あの天明の大飢饉から多くの日本人の命を救うことになる。

このとき活躍した青木昆陽(1698-1769)の名はだれもが知っているが、かんじんのこの甘藷(サツマイモ)を日本にもたらした「最大の功労者」の名はまったくといっていいほど知られていない。その人物は、“琉球五偉人”のひとりに数えられ、沖縄における“近世産業の大恩人”と称せられた儀間真常(1557-1644)である。

儀間真常は、多くの琉球人と日本人の命を救っただけではない。この甘藷と同じ音の「カンショ」と呼ばれる甘蔗(サトウキビ)による製糖、琉球絣など近世の沖縄経済を支える礎を築いた人物である。

儀間真常というひとりの男をここまで突き動かしたものは何であったか。

いまわれわれは、かつて沖縄にこうした事業構想家が実在していたことをもっと知らなければならない。

沖縄の“近世産業の大恩人”儀間真常 写真提供:(株)JCC

江戸の庶民を餓死から救ったサツマイモを日本に

1732年(享保17年)に享保の大飢饉がおこった。冷害と害虫が原因だった。全国で約100万人の餓死者が出たという記録が残っている(『徳川実紀』)。ところが、すでにサツマイモ栽培が広まっていた薩摩ではひとりの餓死者も出さなかった。度重なる飢饉による食糧不足に悩んでいた八代将軍・徳川吉宗(1684-1751)は、このサツマイモの存在に注目し、これを関東に広めようと、儒学者の青木昆陽に白羽の矢を立てた。

それまで一介の寺子屋の師匠にすぎなかった昆陽は、関東におけるサツマイモの栽培に成功し、“甘藷先生”と呼ばれるようになる。その後におこった近世最大の飢饉とされる天明の大飢饉(1782-1788)は、浅間山噴火(1783)も加わって、関東でも猛威をふるった。にもかかわらず、救荒作物としてのサツマイモの効力はいかんなく発揮された。サツマイモは農作物が育たない痩せた土地でも、また水が引けない場所でも、たとえ旱魃がきてもよく育ち、その繁殖力は旺盛だった。蘭学医・杉田玄白(1733-1817)の『後見草』によれば、この天明の大飢饉による餓死者数は全国で約2万人程度だったとある。この数字の信憑性は疑問視されているが(全国で数十万人という説もある)、サツマイモ栽培が始まっていなかった東北地方は別にして、現在の千葉県や埼玉県で生産されたサツマイモが、多くの江戸庶民を餓死から救ったことは確かなようだ。

このサツマイモを日本にもたらしたのが琉球の儀間真常である。真常は、琉球にとどまらず、われわれの先祖である多くの日本人の命を救った大恩人であるといっても過言ではない。

関東においてサツマイモの栽培に成功し“甘藷先生”と呼ばれた青木昆陽

明国の皇帝にも遣わされ画期的な事業を構想する

儀間真常は、1557年(嘉靖36年)に、真和志玉城間切垣花村(現・那覇市)に生まれる。日本では豊臣秀吉や徳川家康が覇権を争っていた時代。真常の出自である麻一族は、琉球王朝第二尚氏王統の流れをくむ渡唐役人の家だ。海外情報がいち早くもたらされる渡唐役人という家柄は真常にとっては幸運であった。

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