2015年3月号
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事業構想家の哲学

東芝創業者・田中久重と鍋島閑叟 「奇才と偉才」異能の邂逅

池内治彦(ノンフィクションライター)

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東芝の創業者であり、“東洋のエジソン”と呼ばれた奇才な発明家、田中久重。 “からくり儀右衛門”久重と“肥前の妖怪”鍋島閑叟の出会いを生み出したもの。ふたりがめざした理想の「モノづくり国家」とは。

東芝の創業者“からくり儀右衛門”こと田中久重

日本には「和魂洋才」という上手い言葉があった。“日本の魂”を固く守りつつ、西洋の科学技術のいいところをうまく取り入れて同化させるという意味である。かつての日本が「和魂漢才」によってあの絢爛たる平安朝文化が花開いたように、明治維新後の日本の近代化は、この「和魂洋才」によって成し遂げられたといっていい。

ところが、いまの日本はというと、かんじんの “日本の魂”はどこかにおき忘れてしまい、かつての「和魂洋才」の精神も変容してしまった感がある。いま一度、そういった日本の原点に立ち返ってみることが必要なのではないだろうか。

江戸末期から明治にかけて、発明に発明を重ね、のちに“東洋のエジソン”と呼ばれるようになった男がいた。“からくり儀右衛門”こと田中久重(1799-1881)である。かれの「モノづくり」は、“和製ロボット”の原点ともいえる「からくり人形」にはじまり、和時計、万年時計、最新型大砲、蒸気船、蒸気機関車、電話機‥‥、と極めて多岐にわたり、のちに世界の「東芝」をおこすことになる。しかしこの久重がもっていたイノベーション力が開花されるには、日本の「事業構想家」の草分けともいうべきひとりの人物との出会いを待たねばならない。

ここでは、久留米の一介の人形職人に過ぎなかった“からくり儀右衛門”が、“肥前の妖怪”といわれた傑物と出会うことで、いかにして日本を代表するイノベーターとなり、東芝創業者になっていったかについて迫ってみたい。

万年時計(複製)。久重の生来の技術である金属細工と、からくりの才を素地とし、設計・製作した古今東西の時計の最高傑作 写真提供:東芝未来科学館

不動の名作 「万年時計」

あるとき“からくり儀右衛門”は、南蛮貿易によってもたらされた西洋時計と運命的に出会う。それはまさに衝撃的な事件であった。しかしかれは、それと同じようなものはつくろうとはしなかった。人まねがなにより嫌いだった久重は、この西洋技術をもって、日本独自のオリジナルな「和時計」をつくってやろうと考えたのだ。当時人々は太陽とともに暮らしていた。「日の出」とともにおき、「日の入り」とともに眠りについた。久重の「和時計」は、その自然のあるがままの営みを時計にしたものだった。

次第に久重の本領は発揮されていく。そしてその卓越した発明力をもって世界を驚嘆せしめる不動の名作をつくる。いまもなお古今東西の時計の最高傑作といわれている「万年時計」である。それは世界の時計機能をすべて備えるものだった。ときは1851年(嘉永4年)、明治維新まで20年を切っていた。1日、2日で止まってしまう時計が当たり前だった時代。かれの「万年時計」は、ひとたびゼンマイを巻けば1年間もそのまま時を刻み続けた。

久重は、「西洋の技術」を取り入れながらも、“日本の魂”を忘れることはなかった。久重が追い求めたものとはいったい何であったか。おそらくそれは、「和魂」と「洋才」という相矛盾するかに見える両者をひとつにするもの、すなわち「いいモノ」をつくってやろうという、いかにも日本人らしい「モノづくり道」にあったのではないか。

久重のつくったからくり人形の最高傑作「弓曳き童子」(複製)写真提供:東芝未来科学館

プレゼンテーションの達人

田中久重は、1799年(寛政11年)に筑後国久留米(現福岡県久留米市通町)のべっ甲細工職人の長男として生まれる。“儀右衛門”の名を受け継ぐ。かれは幼い頃より変わった少年だった。

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