2015年1月号
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事業構想家の哲学

グローカルの先駆者 真珠王・御木本幸吉と「異物から核へ」

池内 治彦(ノンフィクションライター)

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“足芸”行商人から“世界の真珠王”にまで登りつめた男。もちまえのアイデア力を武器に世界に羽ばたいた。そのしたたかなブランディング戦略とは。

「クレージーなひとたちがいる。反逆者、厄介者と呼ばれるひとたち、真四角な穴に 丸い杭を打ちこむように、ものごとをほかとは違う目で見るひとたちがいる。かれらはきまりを嫌う。かれらは現状に満足することがない。かれらに心うたれるひとがいる。否定するひともいる。称賛するひとも、けなすひともいる.........」ではじまるスティーブ・ジョブズ(1955-2011)によるアップル社の有名なCMがある。

それはこう続く。「たぶんかれらはクレージーといわれるが、われわれは天才だとおもう。自分が世界を変えられると本気で信じるひとたちこそがほんとうに世界を変えているのだから」

いまから百年以上も前、伊勢神宮のお膝元である伊勢志摩の地を舞台に、このジョブズの言葉を地で行ったような男がいた。かれは家業のうどん屋、青物行商から身をおこし、もちまえのアイデア力によって“世界の真珠王”と呼ばれるまでになる。周囲のひとたちからの陰口と嘲笑にたえながら自らの信念を貫き通し、そして世界を変えた男、御木本幸吉(1858-1954)である。

若き日の御木本幸吉 写真提供:ミキモト真珠島

御木本幸吉という人物が、常識ではおよそ不可能といわれた「貝に真珠をつくらせる」という無謀なことにいかにチャレンジし、成功させたか、また“ミキモト・パール”をどのように世界に広めていったか、かれを突き動かした哲学は何であったかをここで考察してみたい。

世界中の女性を真珠で飾ってごらんにいれます

1905年(明治38年)、幸吉はそれまでの真珠養殖の功績がみとめられ、日露戦争(1904-1905)の勝利奉告のため明治天皇が伊勢神宮に行幸した際、拝謁するという栄誉を賜った。山高帽と木綿の羽織袴というおよそフォーマルでない異様ないでたちで謁見した幸吉は、明治天皇を前にしてこういってのけた。

「世界中の女性を真珠で飾ってごらんにいれます」

天皇が現人神とされていた時代。この世紀の大プレゼンテーションはこれ以上ないブランディングとなった。かれの業績が国から公式に認められたことを意味したからである。

幸吉は、つねに自らチャンスをつくり、可能な限りの手を打っていくといったタイプの人間だった。1927年(昭和2年)、幸吉は念願の渡米をはたす。かれは敬愛する渋沢栄一(1840-1931)からの紹介状をたずさえ、ニューヨーク郊外に住むトーマス・エジソン(1847-1931)の自宅を訪ねた。エジソンは幸吉にとってあこがれの存在だった。そのときエジソンは幸吉にこういった。

「これこそ真の真珠だ。わたしにはできなかったものが2つだけある。ひとつはダイヤモンド、もうひとつは真珠だ。あなたが動物学上不可能とされていた真珠を発明し、完成させたことは、まさに世界の驚異だ」

“世界の発明王”エジソンからのこれ以上の賛辞はないであろう。さっそくニューヨーク・タイムズはこの会見内容を取り上げた。“ミキモト・パール”の名がアメリカ全土に知れわたった瞬間である。幸吉は、メディア、とくに活字の威力というものをよく分かっていた。

“足芸”行商人

御木本幸吉は、1858年(安政5年)、志摩国鳥羽浦大里町(現・三重県鳥羽市)の「阿波幸」といううどん屋の長男として生まれる。安政5年といえば、日米修好通商条約が締結され、日本の開国が本格化した年である。

幼名は吉松。祖父の吉蔵は「うしろに目がついている」といわれたほど先見性に富んだ商人。一代で財をなした。ところが父の音吉は、商売よりも機械の改良開発に夢中になり、親の遺産のほとんどを食いつぶす。幸吉が物心ついたときには、すでに家運は回復不能の状態にまで傾いていた。しかしそれがよかったのかもしれない。

幸吉は祖父の商売の才と父の発明の才を受け継いだ。正規の教育を受けられなかった幸吉は、なんでもかんでも独学で吸収した。あるとき幸吉は、鳥羽にやってきた狂言師から“足芸”という伝統芸を教えてもらう。仰向けになって足で傘や球を転がす芸だ。それはかれの一芸となった。そんな芸でも無視できない。「芸は身を助く」というが、この“足芸”は、商談などさまざまな場面でかれの道を開いた。

こんなことがあった。鳥羽港にイギリス軍艦シルバー号がやってきたときのことである。これをチャンスとみた幸吉は、さっそく青物を売りに小舟で出る。ほかの商人たちがみな追い返されるなか、幸吉は小舟の上で得意の“足芸”を披露する。軍艦の乗務員たちはこの即興芸に興じ、幸吉を艦上にあげてくれたうえに品物も全部買ってくれた。また後年、行幸の際に鳥羽を訪れた明治天皇の御前でもこの“足芸”を披露した。天皇はたいそう喜んだ。

13歳になった幸吉は、家業のうどん屋のほかに青物の行商を始め、それを元手に18歳のとき米穀商を始める。

1878年(明治11年)、20歳で家督を相続し、名前を幸吉に改めると、「海の国では海の産物を商うべきだ」と宣言し、海鮮取引への転身をはかる。この宣言によってその後の方向性が定まった。やがて幸吉は地元特産の天然真珠にも手を広げていく。その一方で、士族の娘のうめと身分の差をこえた結婚をする。最愛の妻うめはかれの良き理解者となる。

そんななか、高価な天然真珠をうみだす真珠貝が乱獲され、いまでいう「絶滅危惧種」になっている現実を目の当たりにする。幸吉は大いにショックをうける。やがてそれがかれの運命を変えていく。幸吉は、かつて長崎の海軍伝習所で勝海舟らと学んだ海洋測量の第一人者で、“海の伊能忠敬”といわれた、もと伊勢津藩士の柳楢悦(1832-1891)に、思い切ってそのことを相談してみた。そのとき目を大きく開かれた幸吉は、英虞湾での真珠貝の養殖と真珠の養殖を決意する。柳は幸吉にとって最大の支援者となる。

潮で貝のほとんどが死滅したなか、妻のうめが真珠を見つける

かんじんなことは目に見えない

この美しい真珠を人間の手でつくり出すことができないものか。ところが幸吉は重要なことを見落としていた。リスクがあまりに大き過ぎるのである。そもそも真珠は、真珠貝の体内に入った砂粒や寄生虫などが刺激となって真珠質が分泌され、それらを「核」として形成されるという。しかしその確率は極めて低い。百個から千個の真珠母貝から1粒出てくるかどうかだ。その1粒さえ宝石的価値を有するとは限らない。おまけに貝は開けてみなけりゃ分からないし、開けた時点で貝は息絶える。

そこで幸吉は、「真珠が必ずできる養殖方法」を見つけ出そうと考えた。それは真珠貝のなかに「核」になるものを挿入するというものだ。しかし生体というものは、それを“異物”と感知すれば体外に排出しようとする。人為的に貝に真珠をつくらせることは生物学上不可能とされた。“異物”で終わるかそれとも「核」となるか。そんな雲をつかむようなチャレンジが始まった。1890年(明治23年)、幸吉32歳、妻のうめ26歳。幸吉夫婦の二人三脚による、ひたすら貝の声に耳を傾けながらの試行錯誤と悪戦苦闘の日々が続いた。

そんなときである。悪夢は突然やってきた。1892年(明治25年)のことである。突如大発生した赤潮が、幸吉の養殖場に押し寄せてきたのだ。海は血のように赤く染まる。丹精こめて養殖した真珠貝のほとんどが酸欠で死滅してしまった。4年にわたって資金と労力をつぎこんできたすべてが一日で水の泡となった。さらに追い討ちをかけるように、心ないひとたちによる「真珠狂い!」という嘲笑が、失意の幸吉夫婦にあびせられた。なにせ田舎の狭い港町のことである。これにはさすがの幸吉もこたえた。

ところがそんななか、偶然にも赤潮の被害から死滅をまぬがれた貝を妻のうめが開くと、なかから「半円真珠」が5個出てきたのだ。それはまさに奇跡だった。1893年(明治26年)、世界で初めての半円真珠の養殖法に成功する。天然真珠のような「真円真珠」づくりにむかっての大きな一歩だった。幸吉はすぐさま事業化を急いだ。すでに資金が底をついていたからだ。そして1899年(明治32年)には装飾真珠の専門店を東京にオープンさせ、さらには海外への展開もはじめた。なかでも幸吉は博覧会や展覧会への出品にこだわった。「アイ・キャッチャー」というものの威力を、行商時代の経験からよく分かっていたからである。

そしてなんとか軌道に乗りかけてきたかにみえた矢先のことである。さらなる不幸が幸吉を襲う。最愛の妻のうめが5人の子を残し、32歳の若さで病死してしまったのだ。幸吉は最大の理解者を失ってしまった。世界中のだれでもない、妻の首をこそ、いつか丸い真円真珠で飾りたかった。その思いが幸吉の支えだった。

それから10年もの歳月が流れた。ひとり幸吉は真円真珠の養殖にとりくんでいた。そしてまたあの悪夢がやってきた。再び大発生した大規模な赤潮がまたもやかれの養殖場を襲ったのだ。養殖していた貝のほとんどが死滅。ところが再び奇跡が訪れた。死んだ貝を開いてみたところ、なかからなんと大粒の真円真珠が5個あらわれてきたではないか......。

これをきっかけに真円真珠開発が本格的にすすめられ、確実に真珠質を「核」に巻かせる方法を確立する。1905年(明治38年)のことである。そして3年後の1908年(明治41年)には「真円真珠養殖法」で特許を取得する。名実ともに真珠に関する発明のすべてを成功させた。世界中の研究者たちが夢見た人工真珠の誕生である。幸吉は「常識」をくつがえした。夫婦で真珠貝の養殖にとりかかってからすでに18年の歳月がたっていた。

しかしそれだけにとどまらなかったのが幸吉である。いやむしろそれからがかれの真骨頂であったといっていい。幸吉はたんなる発明家というよりも、卓越した先見性とグローバルな視野もった事業構想家であった。

1906年(明治39年)に幸吉は、銀座通り(現・銀座4丁目ミキモト本店)に本店を出した。店ではすべての真珠に正札がつけられ、値引きはいっさいしない、不良品はすべて焼却処分といった徹底ぶり。“ミキモト・パール”のブランドイメージはたかまった。さらに1913年(大正2年)には、ロンドン支店をかわきりに、上海支店、ニューヨーク支店、パリ支店、ボンベイ支店、ロサンゼルス支店、シカゴ支店をつぎつぎに開設させ、いまでいうグローバル戦略を展開していった。

ミキモト初の海外支店である「ロンドン支店」開設(1913年) 写真提供:ミキモト真珠島

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