五代友厚と「場づくり」
“ラストサムライ”が「商人の町」をつくった。破綻にひんしていた大阪の地を“東洋のマンチェスター”へと変えた五代友厚の「事業構想力」とは。
幕末を決して表舞台に出ることなく、陰で維新を働きかけたひとりの男がいた。
その男は、あの海援隊の「いろは丸」沈没事件(1867)を親友の坂本龍馬(1836-1867)に代わって解決し、衝突してきた紀州藩(徳川御三家)から莫大な賠償金を取り上げることに成功し、また幕末期のパリ万博(1867)で薩摩の名をたかめることにより徳川幕府を外から弱体化させ、さらにはだれよりも早くから開国を主張し、富国強兵を説いてまわった。
維新後、功労者たちがみな先を争うように官職や爵位を求めるなか、かれは「官」を嫌い、「名誉」を追わず、あえて破綻にひんしていた大阪の地で日本の近代化を成し遂げ、のちに“東洋のマンチェスター”と称せられる大阪をつくった。そして資産をいっさい残さず、“大阪の恩人”という名だけを残してこの世を去った。利を追い求める商人の世界において、私利私欲のない生涯をまっとうした“ラストサムライ”。それが五代友厚(1835-1885)である。
“東の渋沢、西の五代”とも、“関西経済界の父”ともいわれた五代友厚とはどのような人物であったか、あえて疲弊しきっていた大阪の地で、実現しようとしたかれの事業構想とはどのようなものだったか。そしてなによりも私は、「事業構想家」というよりも、ひとりの「人間」としての五代友厚に興味をもった。かれは、いまの日本人が忘れてしまったもの、日本人のDNAといっていいものを確かにもっていた。
「詮議(せんぎ)」の達人
「親の敵討で諸国をたずね、海上で難風にあってどうにもならないとき、助け舟がきたのでよく見ると、それが親の敵であった。この場合、いかにするや」さながらハーバード大学マイケル・サンデル教授の白熱教室のようだ。これは「詮議」と呼ばれた薩摩藩の郷中教育のなかで、実際におこなわれていたディスカッションの風景だ。
いまでいう“ケースワーク”である。おこり得るけど簡単には答えが出ないような状況を想定し、その解決策をみなで討論し合う。薩摩藩では、若き藩士たちにこの「詮議」という学習法を取り入れていた。こういった類いのものは、日本人には不得手だが、薩摩藩では積極的にこれを用いて若者の知性と判断力を磨き上げた。その目的はどこにあったか。ところで冒頭の難解な設問に対して、ようやく六、七歳になったばかりの友厚(当時は才助)は涼しげな顔でこう答えた。
「助けてもらった礼を厚くのべたのち、親の敵であるから覚悟せよと告げてから、迷わず討ち果たします」。
だれも思いもつかなかったこの答えに、周囲の者たちはみな驚いた。父親譲りの“才”と母親譲りの“直感”に恵まれた友厚は、幼い頃よりこの「詮議」を通して、気の合う仲間たちとともに、自分の頭で考えることを身につけていった。考える力は一朝一夕で備わるものではない。
いろいろな人の意見に耳を傾け、自分の言葉で考え、それをしっかりと伝える「場」をもつことだ。そういう「場」は多ければ多いほどいい。どうやら友厚はこうした「場」に恵まれていたようだ。そして友厚の優れた特徴のひとつは、この天与の「場」を、最大限に活用する術を心得ていたことであろう。それは幼い頃のかれをきたえた「詮議」という「場」だけではない。
青年時代には、自然科学や英語という生きた学問を習得した長崎の「海軍伝習所」という「場」であったり、また密航先イギリスから仕込んできた“新知識”を、自ら実践することができた大阪という「場」であった。そして友厚は、当時疲弊しきっていた大阪の地を、“東洋のマンチェスター”と称される「場」に変えていった。
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