2014年11月号
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事業構想家の哲学

未来の視座に立った事業承継 日清紡元社長・櫻田武の日本的経営

池内治彦(ノンフィクションライター)

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現代の範とすべき強いリーダーシップをもった“憂国の士”櫻田武。日清紡の経営者となり、「非繊維部門」への本格参入を構想し、実現させた。かれが目指した“プリンシプル”な経営哲学とは。

戦後、奇跡的な再生を果した日本経済は、高度経済成長期を経て、やがて“バブル経済”と “バブル崩壊”を相次いで経験する。大銀行や大企業はこぞって、「企業合同」への道を突き進み、日本経済は、低成長経済、新自由主義による規制緩和と格差社会、そして“グローバリズム”という新たな資本主義へと流れていく。

かつて戦後の日本の経済界には、頑なまで自らの信じる道を歩んだ男がいた。日本経済におけるかれの足跡は、いまもわれわれに何かを強く訴えかけてきている。“憂国の士”、“ミスター日経連”、“財界四天王”などいくつもの形容詞で称された櫻田武(1904-1985)である。この櫻田武というひとりの事業構想家、知れば知るほどに、こちらの姿勢を正さずにはおかない光彩をいまなお放っている。

“憂国の士”、“ミスター日経連”、“財界四天王”などと称された櫻田武

それにしても、「戦前・戦中・戦後」という激動の時代をくぐり抜けてきた事業構想家たちからは学ぶべきものが非常に多い。それはまた「幕末・維新・明治」といったわが国開闢以来の動乱期を駆け抜けた事業構想家たちと多分に重ね合せることができるかもしれない。

かれらに共通していえるのは、“自らの哲学”をもっていたということである。そしてかれら自身、“自らの哲学”を決して裏切らなかった。その哲学もまた、かれらを裏切ることはなかった。

社名も社風も変えない!生糸を中心とする日本の紡績業は、見事に日本の近代化を成し遂げた。200年以上に及んだ長くて深い“鎖国の眠り”からめざめた日本は、ほぼこの紡績業だけで、一気に西洋列強と肩を並べるまでになったといっていい。こんな国はほかに見あたらない。

1858年(安政5年)に、日米和親条約(1854)に続いて列強5カ国との通商条約が結ばれると、繊維製品は全輸出の86パーセントを占めた。明治になってからもこの日本の優れた繊維製品は全輸出の60パーセントを切ったことはなく、それで得た外貨で、軍艦を買い、大砲や鉄砲を買い、清国との戦争に勝ち、ロシアとの戦争にも勝利した。そして鉄道をはじめ鉄鋼業、電機産業などを興し、近代化が成し遂げられていく。開国からわずか50年しかたっていない。

ところが戦後になると、この紡績業は、日本経済の重工業化にともなって一気に衰退していき、“ニクソン・ショック”(1971)後の円の大幅切り上げでほぼ決定的となる。そして、多くの紡績会社は、次々にその社名を変え、社風を変え、さらにはそれまでの天然繊維から、石油を使った合成繊維へと“宗旨替え”をしていった。

しかしそんななかにあって、櫻田武は、「日清紡」の名とその社風にこだわり続け、日本伝統の紡績業という“日本の魂”を守り抜いた。そして日清紡一社だけが、安定配当会社として残る結果となった。ところが、その一方で櫻田は、その社名と社風を残しつつ、「非繊維部門」への本格参入という思い切った“質的改善”を図っていったのである。

そして、1990年からの“バブル崩壊”後にやってきた平成不況のさなかにおいて、多くの企業が、また相次いで名前を変え、性格を変え、その姿すらも一変させていくなかで、日清紡は、 この“櫻田イズム”を堅持し、その「企業価値」を高めていくのである。

櫻田武はいかに成立し得たか

1904年(明治37年)、櫻田武は、広島県赤坂村(現福山市)の地主の家に長男として生まれる。赤坂村は、その背後の山にのぼれば、足下に尾道の港湾を望むことができる。武の生家は、山陽本線備後赤坂駅から他人の土地を踏まずに行けたほどの大地主。ちなみに、この地を治めていた備後福山藩からは、幕末期に老中首座として日米和親条約を締結し、その後の紡績立国日本の礎をつくった名君・阿部正弘(1819-1857)が出ている。後に紡績業に身を投じ、わが国の紡績業を発展させた櫻田武とどこか因縁めいたものを感じる。

武は泣き虫だった。案じた父・斉は、弱虫の武に毎朝、冷水を浴びせ、裏山の階段を何回も上り下りさせるなど山伏のような“荒行”までさせて鍛えた。そういう強い父親がかつてはいたのである。さらに柔道に出会ったことで、青白い文学少年は逞しい若者に変貌していく。

柔道は武少年に合っていた。武は、岡山六校から東大にかけて、耳の形が変形するまで柔道に打ち込んだ。当時の六校は、全国大会で宿敵・金沢四中を制し、全国優勝するほど強かった。武の得意技は寝技で、つけられたあだ名は“タコ”。ちなみに、同じ六校の先輩で後年櫻田とともに〝財界四天王〟のひとりにかぞえられた永野重雄(1900-1984)も同じく柔道に明け暮れていた。この永野の柔道着は相当汚く、汗臭く、周囲からは“ウンテルメンシュ”(人間以下)と呼ばれていたらしい。ともに汗を流し合って培われた青春の“絆”は、終生変わることがなかった。

そして武は、東大法学部卒というよりも東大柔道部卒といっていいほどに柔道にのめり込んだまま東大を出た。

「お前、成績悪いな」

「もっぱら柔道をしていたので......」

この面接試験でのやりとりで、「こいつ面白い奴だ」と、日清紡社長の宮島清次郎(1879-1963)に目をつけられる。「この男こそ俺の跡を継いでくれるに違いない」。宮島は櫻田という人物をいち早く見抜いていた。やがて宮島は、櫻田の経営指南役になり、終生の師となる。ちなみに日清紡は、福沢諭吉の婿養子の福沢桃介(1868-1938)が日清戦争前夜の投機で得た資金で生まれた紡績会社である。

櫻田には、こんな武勇伝も残されている。(大谷健著『櫻田武の人と哲学』参照)

1937年(昭和12年)、廬溝橋事件に端を発した日中戦争が勃発し、当時名古屋支店長だった櫻田にも応召命令がかかる。35歳のときである。砲兵少尉として中国戦線の武漢で任務についたときのことだ。1940年(昭和15年)の宣昌作戦のため、櫻田は留守隊を任された。そこに急襲してきた中国軍と応戦することになり、ついに刀剣による白兵戦となる。刀の使い方などまるで知らない櫻田。どうしても敵兵を斬ることができない。やむなく丸腰となった櫻田は、得意の柔道の型そのまま、次から次へと片っ端から中国兵を投げとばしていった。この櫻田率いる留守隊の捨て身の奮戦により、中国軍は退却した。

1942年(昭和17年)、櫻田は中尉で除隊し、日清紡に戻る。が、そこは「統制経済」という厳しい現実が待っていた。そして櫻田は、1945年(昭和20年)の終戦時に、41歳という若さで社長に就任する。「あの泣き虫がのう......」父の斉は驚いた。やがて櫻田は、師・宮島から受け継いだ日清紡を、業界屈指の高収益企業へと発展させていくのだった。

姉弟妹とともに(櫻田武は後ろ右)。少年時代は柔道に打ち込んでいた

日本の未来を見すえた「事業構想力」

経営者となった櫻田は徹底していた。「自分の頭で考えろ」「お前に任せたのだからお前が決めろ」櫻田はなによりも“指示待ち人間”を嫌った。顧客に対しては「約束経営」に徹し、「約束した商品は約束の日に約束した数量だけを必ず納品する」を守り抜いた。また契約期間は、たとえ原料が値上がりしても、価格はそのまま据え置いた。社内では「堅実経営」に徹し、贈答品のやりとりのいっさいを禁止し、また自身は秘書をおかず、作業はすべて自ら処理した。

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