究極の「おもてなし哲学」 広域観光開発の先駆者・油屋熊八

奇想天外なアイデアと規格外の行動力で日本一の“泉都”を築いた男。相場師“油屋将軍”から一転して“別府観光の父”へ。油屋熊八がたどり着いた「おもてなし哲学」とは。

“別府観光の父”といわれた油屋熊八(写真提供:平野資料館)

「生きてるだけで丸もうけ」。最近、この言葉をよく耳にする。「小さな失敗にくよくよするのはやめて毎日いいことばかり考えて暮そう」というほどの意味である。これは、波乱に富んだ人生のすえ、日本の“おもてなし”の心に目覚め、別府温泉の観光開発や田園的な温泉保養地・湯布院温泉の礎を築いたある事業構想家のいった言葉だとされている。このなにげない言葉のなかには、かれの波瀾万丈の生涯が凝縮されているようだ。

これからは「地方の時代」とか「地域の活性化」などと騒がれながら、地方経済はいまだ冷え込んだままだ。そんななか、いまから100年以上も前に、将来の「観光・レジャー」資源に目をつけ、地域の活性化にいち早く取り組み、大成功を収めた男がいた。“別府観光の父”といわれた油屋熊八(1863-1935)である。

そこで、この油屋熊八という稀有な人物が、どこでどんな人生を歩んだすえに “おもてなし”の心というものに目覚めていったか、かれのたどり着いた“おもてなし哲学”とはどのようなものか、そしてその“おもてなし哲学”を、広域な「観光づくり」にまで結びつけていったかれの「事業構想力」とはいかなるものであったかなどについて触れてみたい。

油屋熊八とかれの“巡礼の旅”

油屋熊八は、1863年(文久3年)に伊予国宇和島城下(現愛媛県宇和島市)の裕福な米問屋の長男として生まれる。1870年(明治3年)には一般人にも苗字が許され、熊八の家は屋号の「油屋」を名乗る。熊八は小学校しか出ていなかったが、小さい頃から働き者で有名だった。その甲斐あってか、熊八は、1890年(明治23年)に宇和島の町会議員となる。27歳のときだ。そして30歳になると、心機一転大阪に渡り、米相場で巨万の富を築くのである。そのときつけられたあだ名は“油屋将軍”。ここまでは順風満帆だった。

熊八が別府にて創業した「亀の井旅館」(昭和初期撮影)。世界中からVIPを迎える一流ホテルになった(写真提供:平野資料館)

ここにかれと同時期に生きたある人物の名前が頭に浮かんでくる。その男も、熊八と同じように、大阪を拠点に綿相場で巨万の富を築き、また熊八と同様、“白洲将軍”というあだ名で呼ばれ、みなから畏れられていた。戦後、吉田茂の側近としてGHQとの折衝などで活躍した白洲次郎の父親の実業家・白洲文平(1869-1935)である。当時、大阪は“東洋のマンチェスター”と称されるほどの繁栄を見せていた。しかし文平は、昭和金融恐慌(1927-)で破産し、失意のうち大分で死去する。奇しくもその大分の地は、後の油屋熊八が破産から再起し、大成功を収めた場所でもある。このふたりの「明暗」を分けたものは何であったか。

34歳のとき熊八は、日清戦争(1894-1895)後の相場で失敗し、全財産を失う。しかしかれにとっての「本当の人生」が始まるのは、まさにこの「瞬間」からであった。

無一文となった熊八は、失意のなか、妻ユキをひとり別府に残し、単身アメリカに渡る決意をする。破産した翌年の1898年(明治31年)、熊八35歳のときである。「臭くて暑い船底」になんとか潜り込んだ熊八は、アメリカ大陸への上陸を果たす。1898年のアメリカはというと、キューバ独立をめぐる米西戦争で、スペイン艦隊を打ち破り、まさに“アメリカ帝国主義”に移行しつつあった。熊八がアメリカに渡ったのはちょうどその頃である。

熊八は何を求めてアメリカに渡ったのか。大陸に夢を求めたのか、それとも新しい時代の息吹を感じたかったのか。それはその後のかれの生きざまから想像するしかないであろう。

アメリカに寄る辺などなにひとつない熊八は、放浪のすえ、サンフランシスコでひとりの日系人牧師と運命的に出会う。そしてその牧師から生まれて初めてキリスト教を学び、ほどなく洗礼を受ける。かれは異国の地で異国の神にご加護を得た。

熊八は、そのとき読んだ聖書のなかの一文にいたく感動する。そこにはこう書かれてあった。“Remember to welcome strangers in your home.There were some who did that and welcomed angels without knowing it. ”(Hebrews 13:2GNT)「旅人の接待を忘るな、或人はこれに由り、知らずして御使を舎したり」(「へブル人への書」第13章2節)

この言葉は、その後のかれの運命を大きく変えていくことになる。人生何が起こるかわからない。

3年かけてカナダからメキシコまで北米大陸を放浪し、大いに見聞を広めた熊八は、恩人の牧師から帰国を勧められる。熊八は38歳になっていた。しかし、この3年におよぶ“巡礼の旅”は、それまでのかれのなかの価値観を一変させていた。けれども、このとき熊八は、まだそのことに気づいてはいなかった。

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