2014年9月号

事業構想家の哲学

500余りの事業構想を 「プロデューサー型リーダー」渋沢栄一

池内治彦(ノンフィクションライター)

2
​ ​ ​

右手に「論語」、左手に「ソロバン」をもった男。外遊での最新知識を得て、近代日本の資本主義経済の礎をつくった。“日本資本主義の父”といわれた不世出の「事業構想家」が夢想した理想の国づくりとは。

かつて「金さえあれば何でも実現できる」といい放って、世間を騒がせた日本人がいた。また、米国的な拝金主義に傾き、安易に一獲千金を狙う若者らが近年目立ってきているようにも見える。しかし、現実的な経済の世界においても、「人の道」とか「人こそ財産」とかを考えるのが、そもそも日本人の原点なのであり、日本人ならそのことは十分に承知しているはずである。

いまから百年以上も前、黎明期にあった日本経済にあって、この「人の道」ということを経済のなかで貫こうとしたひとりの男がいた。その男は「人の道」を説く論語の世界と「実利」を求めるソロバンの世界の一致ということを大真面目になって実現しようとした夢想家でもあった。“日本資本主義の父”といわれた渋沢栄一(1840-1931)である。

そこで、渋沢栄一という不世出の事業構想家がいかにして成立し得たか、事業構想家としてのかれの信念は何であったのか、またかれはなぜこれほどの「事業構想力」をもちえたのか、そしてかれが最も実現しようとした理想の世界とはどのようなものだったかについて触れてみたい。

渋沢栄一はいかにして成立し得たか

私は、学生時代の一時期、いわゆる「シブサワ」にハマったことがある。しかし「シブサワ」といっても渋沢栄一ではなく、同じ渋沢一族の澁澤龍彦(1928-1987)のほうだ。澁澤のもつ独特の耽美主義は、現実逃避を考えていた当時の若者にとって心地よいものであった。

実は、この二人、同じ深谷の豪農の「渋沢」の出であることは知っていた。当時“大渋沢”と呼ばれた渋沢本家の屋敷で、まだ赤ん坊だった本家筋の龍彦が、分家の栄一翁の膝の上に抱かれて小便をもらしたことがあると何かの本で読んだ記憶がある。

澁澤龍彦は、フランス文学者でいわゆる「美の求道者」である。一方、渋沢栄一は、“日本資本主義の父”といわれるほど大実業家だ。当時私は、「シブサワ」という同じ根っこから派生したこの二人の人物から感じる“違和感”をどうしてもぬぐい去ることができなかった。しかし、あれから大分たったいま、私の見方にも多少の変化が生じてきている。

渋沢栄一は、1840年(天保11年)に、現在の埼玉県深谷市の豪農の家に生まれた。渋沢はもともと血気さかんな尊王攘夷派で、幕府の封建支配に対して激しい反発をもっていた。

「高崎城を乗っ取れ!横浜を襲って外人居留地を焼き打ちせよ! 」

これについて渋沢は、自身の著書『経営論語』のなかで、列強諸国からの問責によって幕府を転覆しようと画策したと述懐している。しかし栄一らの無謀な計画はあえなく頓挫。栄一はお尋ね者となり、流浪の身となる。栄一24歳のときである。窮地に追い込まれた栄一に、なんとあの一橋家が救いの手をさしのべたのだ。人生何が起こるかわからない。

農民の出で大の武士嫌い、しかも過激な尊王攘夷から、一転して開国派の幕臣となった栄一青年。かれは得意のソロバンで一橋家の勘定方の任にありつく。そして理財の才を見込まれ御勘定組頭にまで抜擢される。さらに栄一の幸運は続く。一橋慶喜の弟・昭武(当時14歳)がパリ万国博に慶喜の名代として行くというので、そのお供に栄一も連れて行くことになった。そこでかれの人生は大きく変わっていく。栄一27歳のときである。

1年半にわたりヨーロッパで大いに見聞を広め、“新知識”を吸収してきた栄一。日本に帰ってみたら驚いた。天地がひっくり返っていたのである。260年余り続いた幕府が本当に倒れていたのだ。しかし栄一は、新政府の敵となった恩人の慶喜をどうしても見捨てることができなかった。栄一は、静岡に謹慎されていた慶喜のもとに駆けつけた。このとき栄一は自身も静岡の地で一生を送る決意をしたという。そしてその地で、銀行と商社を合わせたような日本初の株式会社「商法会所」をつくる。ところが皮肉にも、その手腕が新政府の目にとまることになる。

新政府のなかに、渋沢がヨーロッパで得てきた“新知識”をぜひとも活用させたいと強く願う者が現れた。佐賀で“西洋かぶれ”の藩主から鍛えられた大隈重信である。渋沢は、大隈に口説き落とされ大蔵省入りをするや、たちまち大蔵少輔事務取扱、いまでいう事務次官にまで登りつめた。

産業革命当時のヨーロッパで、感受性の強かった渋沢青年が獲得した“新知識”の威力は絶大だった。なぜなら渋沢は、その「処方箋」まで心得ていたからである。それはおそらく、いまから1200年前の弘法大師・空海が、30歳で世界最大の都市の長安にわたり、そこで当時最先端の “新知識”を吸収し、帰国後、平安の御代に多大な影響を及ぼしていったのと比肩できるかもしれない。渋沢栄一という一個の人間の「成立条件」は、案外こんなところにあったのではなかったか。事実、この欧州視察で得てきた“新知識”は、渋沢を近代日本を代表する経済リーダーにつくりあげていった。

そして渋沢は、新政府に思い切った健全財政の改革案を建議する。ところが、大久保利通や大隈重信ら変革を嫌う旧士族出身の官僚たちの猛反発に遭う。結局、かれの改革案は受け容れられず、やむなく大蔵省を去ることになる。“下野”である。渋沢33歳のときだった。このとき渋沢は、旧士族の官僚たちに阻まれたことを苦々しく思ったに違いない。

論語とソロバンの一致

渋沢は農民の生まれである。「名字帯刀御免」の豪農の出とはいえ、所詮、農家の分家の長男坊である。子供の頃、栄一は父の使いで代官のところに行き、そこで“御用金”の名目で五百両を要求されるということがあった。「もち帰って父に相談します」と返答すると、代官から「生意気な百姓の小倅め!」と激しく罵られる出来事があった。少年の心は大いに傷つけられた。欧州帰りの渋沢が夢見たのは、「士農工商」という身分制度がなくなった全く新しい世界だったのである。

四民平等なんてウソだ!

「士農工商」がただ「官農工商」に変わっただけじゃないか!

何も変わちゃいない!

官僚なんかくだらない!

渋沢は「官」を見限った。そして活躍の場を「民」に求めた。いよいよ「民」にあっての渋沢の人生が始まるのである。

渋沢がヨーロッパで見聞きしたものは、なにも産業革命や新しい政治体制だけではなかった。それは、高級将校と商人とが対等に会話をしているという驚くべき光景であり、誰もがその身分に関係なく読んでいる一冊の本すなわち「バイブル」の存在であった。

バイブルなら日本にだってある。「論語」だ。渋沢は、7歳の頃から10歳年上の従兄の尾高惇忠(藍香)のもとで論語を習い、いつも懐中にしてすべて暗記していたという伝説があるほどだ。尾高という極めて優れた師が身近にいたということは栄一にとって幸運だった。おそらく尾高は、あの空海にとって師である叔父の漢学者・阿刀大足のような存在であったかもしれない。そして、「民」において渋沢がめざしたものは「論語とソロバンの一致」、すなわち「道徳と経済の合一」だった。つまり、人の道を説く「論語」と実利を重んじる「ソロバン」という相矛盾する両者をひとつに「融合」することはできないか、と渋沢は考えたのだ。

しかしそこには大きな“壁”があった。論語では「商業や金儲けは卑しいこと」とされていたからだ。現に「利に放りて行えば、怨み多し」(里仁篇)というのが論語のなかにある。そもそも論語は武士のテキストだった。「利は義に反する」とされ、お金を儲けることに罪悪感があった時代である。その拠り所として論語が使われていたのだ。

しかし江戸時代には、鈴木正三(1579-1655)だっていた。正三は、日本人の勤勉性を仏教哲学から解き明かした禅僧だ。かれは著書『万民徳用』のなかで、農民は仏道修行のひまがない、どうしたらよいか、という農民の問いに対して、「農業すなわち仏行なり。意を得ること悪しき時は賤業なり。信心堅固なる時は、菩薩の行なり。楽を欲する心あって、後生願う人は、万劫を経るとも成仏すべからず」と答え、ひまを得て修行、成仏しようとするのは誤りだとした。つまり、「働くこと」そのものが仏行そのものであるとし、農民、職人、商人も武士となんら変わるところはない、「武士道」だけが「道」ではなく、「農民道」、「職人道」、「商人道」だって「利他」をめざした立派な「道」だ、といっているのである。

そして、商人が人に奉仕した結果、利を得ることはいいことだとする鈴木正三の思想を発展させた石田梅岩(1685-1744)もいた。梅岩は、著書『石門心学』のなかで、「売利ヲ得ルハ商人ノ道ナリ」として真正面から商人の価値を認め、商人を「ただ利を知って義を知らず」とする武士中心の考え方に対して激しく抗議した。この二人の存在は大きかった。かれらの思想はたちまち日本全国に広がっていった。

27歳のときパリ万国博に随行した渋沢栄一。欧州滞在中に髷を切り、和装から洋装へ(渋沢史料館所蔵)

経済こそが最高の「人の道」

日本人の精神性は江戸時代に形成された。日本人の精神構造はここに定まったといっていい。そういう思想家が、江戸の日本にはちゃんといたのである。間違いなく渋沢も、従兄の惇忠からそれらの教えくらいは学んでいたはずだし、かれのめざす「論語とソロバンの一致」も、この「道」という日本的な思想を通してはじめて達成ができると考えたに違いない。

日本人はすべてを「道」にしてしまう。たとえそれが矛盾していようが、いま自分がやらなければならないことに私欲を捨てて全力を尽くす。「そうすれば極楽に行ける!」それが日本人の宗教観であり哲学なのである。ならばそれと同様に、「経世済民」(「世を経め、民を済う」)追求する「経済道」だってあっていいはずだ、さすれば経済だって最高の「人の道」になりうる、というのが渋沢栄一の言い分である。

論語をすべてそらんじるほどに愛読していた栄一。「そもそも武士ってなんだ?武士道ってなんだ?」きっと渋沢は、「真の武士らしくありたい」と本気で願っていたに違いなく、あるいはそうであったであろう。こうして渋沢は、“武士の魂”をもって商人はできないか、すなわち「士魂商才」をめざした。かれはそれを「道徳経済合一」と呼んだのである。

「わたしは論語で一生貫いてみせる」「まっとうな生き方によって得られるなら、どんな仕事についていても金儲けは正当化される」さらには「私利を捨てて事にあたるなら、武士でも商人でもなんら変わるところはない」そのくらいに渋沢は考えていただろう。やがてそれはその後の渋沢の活躍に現れることになる。

渋沢栄一がわが国最初の近代銀行として創設した「第一国立銀行」(国会図書館所蔵)

渋沢の卓越した「事業構想力」

「官」を去った渋沢は、第一国立銀行(現みずほ)の設立と、それをモデルにして、それと競合する数々の銀行を次々に設立していった。(かれのなかではそれは少しも矛盾しなかった)そして銀行の他にも、日本郵船、KDDI、東洋紡績、東宝、帝国劇場、IHI、第一三共、東京ガス、東京証券取引所、東京海上火災保険、帝国ホテル、大日本印刷、JR各社、キリンビール、サッポロビール、それに最近話題となった理化学研究所などを様々な会社を同様にして設立していく。その数なんと500余りといわれ、日本経済のあらゆる面にかかわっている。

渋沢という人間は、かれを慕う者らによってもち込まれる「事業構想案」の一つひとつを、誠意をもって支援していくことで、自らもまた「進化」を遂げていった。「人の安んずるところを察する」ことに長けていた渋沢は、まさに“プロデューサー型リーダー”の典型といえるだろう。そしてそれこそが渋沢の卓越した「事業構想力」ではなかったか。渋沢を想うとき「人徳」の二文字が胸にしみてくる。

さらに渋沢は、他の財界当主たちがしたように「財閥」というものをつくらなかった。その真ん中に自らを“鎮座”させようとはしなかった。渋沢は「私利を追わず公益を図る」という信念を頑なに貫いたのである。そして後継者の渋沢敬三もそれをそのまま継承した。

渋沢の特筆すべきところは、この「閥」というものをとことん嫌ったという点にあるといえよう。「閥」とは、「出身や利害などを同じくする者が結成する排他的な集まり」のことである。そして日本人の特徴は、この「閥」という“ムラ社会”をつくりたがる傾向にあるということだ。しかし渋沢は、この「閥」と闘っていたのである。

いまなぜ、渋沢栄一なのか

そして、忘れてならないのは、渋沢がヨーロッパで得てきた“新知識”のなかに、“ノブレス・オブリージュ”があったに違いないということだ。これは「位高きは徳高きを要す」と訳されているが、後年渋沢が力を入れた「周りへの責任」「周りへの奉仕」の精神である。

渋沢は、あらゆることの拠り所にかれの“御本尊”ともいえる「論語」をあげているが、“ノブレス・オブリージュ”も渋沢なりに解釈したはずだ。渋沢は、「余りあるをもって人を救わんとすれば人を救うときなし」を自らに課した。そして日本赤十字社の設立をはじめ600以上の社会事業に携わるなど、“経営者はかくあるべし”という経営者たる者のもつべき「責任」を世にしめした。いまでいう「CSR」(企業の社会的責任)である。そしてこの「他者への奉仕」が評価され、渋沢は1926年と1927年の2年連続でノーベル平和賞候補に挙がっている。

経営学の重鎮P・F・ドラッカー(1909-2005)も、著書『マネジメント』の序文なかで渋沢栄一について触れ、「私は、経営の『社会的責任』について論じた歴史的人物の中で、かの偉大な明治を築いた偉大な人物の一人である渋沢栄一の右に出るものを知らない。彼は世界のだれよりも早く、経営の本質は“責任”にほかならないということを見抜いていたのである」と語っている。

日本の近代化は、明治中頃からその速度を速めると、日清・日露戦争の勝利で一層加速され、第一次世界大戦を経て、ついに日本は西洋列強と肩を並べるまでになった。そしてその陰で、近代日本の資本主義経済の発展と社会事業に偉大なる足跡を残し、ただひたすら世のため人のために尽くした渋沢栄一は、これらすべてを見て、1931年(昭和6年)に91歳の天寿を全うした。

対話とモデルつくり

士魂商才。渋沢が経営者らによって語られるとき、よく耳にすることばである。それは一般的には「論語とソロバンの一致」といわれている。しかしこのことばだけで渋沢栄一を表現することはできない。外遊で得た西洋の最新知識、しかもたんなる見聞的知識ではなく実践知が加わったことにより、事業構想家としての渋沢栄一が生まれたのである。渋沢は、500余りの事業構想に関わったといわれているが、彼自身が事業アイデアを構想し設立したのは商法会所や第一国立銀行などさほど多くはない。むしろ、アイデアを持ち込んでくる者を拒まず、彼らと一緒に考え高めていったのである。

本編で池内氏は、その能力を「プロデューサー型リーダー」と表現している。事業構想の視点からいえば、それはまさしく「対話」の重要性、すなわちアイデアは秘匿ではなく対話によって花開くという考え方が根本にあり、今日でいえば「オープン・イノベーション」ということになろうか。さらに、彼が多種多様な企業や団体、学校などの設立に積極的に関わったのは、まさしくモデルをつくろうとしたのであり、そこにはプロトタイピングを重視する「デザイン思考」が感じられるのである。

日本経済の父、渋沢栄一が偉大な事業構想家でもあったことは誰しも認めるところである。だがその真価はまだ十分に伝えられていない。

中嶋聞多(事業構想大学院大学教授)

2
​ ​ ​

バックナンバー

メルマガで記事を受け取る

メルマガ会員限定で、
ピックアップしたオンライン記事を
毎日お届けします。

以下でメルマガの登録ができます。

購読申し込みで全記事が読める

2018年4月号「SDGs×イノベーション」完売!

会員になって購読すれば、バックナンバー全記事が読めます。PC・スマートフォン・タブレットで読める電子ブックもご用意しています。


初月無料キャンペーン実施中!

バックナンバー検索

注目のバックナンバーはこちら

最新情報をチェック。

会員になると 最新「事業構想」が読み放題。今なら

初月無料キャンペーン実施中