2014年8月号
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事業構想家の哲学

尾高惇忠と「人づくり」

池内 治彦(ノンフィクションライター)

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日本近代化の礎となった「富岡製糸場」。それはひとりの事業構想家のゆるがぬ信念とたゆまぬ努力によって生まれた。渋沢栄一の学問、人生の師でもある尾高惇忠の哲学とは何か。

6月に世界文化遺産登録が決まった富岡製糸場(写真提供:富岡市・富岡製糸場)

近年、若者の「モノづくり」離れとか若者の理系離れとかいうことがいわれて久しい。しかしその一方で、“メイド・イン・ジャパン”は信用できるという構図が、海外ではでき上がっているというし、外国企業が日本でモノを作ったり売ったりすることが、“ステイタス”になってきているという話も耳にしたりもする。

実際、日本という国は、“ニセモノ”や“マガイモノ”はつくってこなかった。そして、つくられたモノの質の高さは世界一を誇っている。さらに日本の町工場は、“バブル崩壊”以来の逆風のなかでもしぶとく生き残り、いまなお日本経済の土台を支え続けている。またアップル社の故スティーブ・ジョブズは、日本の「モノづくり」というものを深く理解し、町工場やそこで働く熟練工とか職人を心から愛していたともいう。

しかし、ようやく最近になってから、若者のなかで、日本の伝統の「職人技」というものが見直され、日本の「モノづくり」を支えてきた熟練工たちにも関心が集まってきている。

そしていま、それらの原点ともいうべきものに世界の注目が集まっている。2014年6月に世界文化遺産登録となった世界最大の製糸工場「富岡製糸場」とそこで働いていた女子熟練工「富岡工女」の存在だ。この富岡製糸場は、“日本資本主義の父”である渋沢栄一の学問及び人生の師でもあった尾高惇忠(あつただ)によって創立されたものである。

渋沢栄一の良き“人生の師”

良き“人生の師”に巡り合うことほど幸運なことはない。「だれに教えを請うたか」ということは、その人の人生において極めて重要な問題なのである。

尾高惇忠は富岡製糸場の創業を担い、渋沢栄一の師でもあった(写真提供:盛岡市先人記念館)

“藍香ありて青淵あり”「今日の自分があるのはひとえに尾高の教えのおかげである」。現在の日本を代表する500余りの会社と600以上もの社会事業を残した“日本資本主義の父”である渋沢栄一は、従兄でありまた師でもあった尾高惇忠のことをこうたたえた。「藍香」とは尾高の雅号であり、「青淵」は渋沢のことだ。

“学あり行いあり君子の器、われまた誰をか頼らん、何ぞわれを捨てて逝けるや”尾高惇忠の墓碑に記された渋沢栄一の言葉である。

渋沢栄一は、師の尾高惇忠を終生にわたって大事にした。渋沢が、深谷の百姓の出ながら、一橋(徳川)慶喜の側近中の側近になれたのも、その後の渋沢の人生を決定づけた「洋行」も、この従兄の惇忠のおかげであるといっていいし、また渋沢が大蔵省を去り、「民」に下ってから、ビジネスの世界において「論語とソロバンの一致」の精神を貫き、後に“日本資本主義の父”といわれるまでになったのも尾高なくしては語れない。しかしこの尾高は、実業の世界においても大きな足跡を残し、日本の近代化に貢献していたのである。

尾高惇忠は、1830年(天保元年)に現在の深谷市の名主の家に生まれる。幼名は新五郎。母親は渋沢家の出で、栄一とはいとこ同士。惇忠は、幼い頃より学問に秀で、17歳から幕末の頃まで自宅で私塾「尾高塾」を開き、近郷の子弟たちに学問を教えた。

明治維新後の日本が、一気に西洋列強に並ぶ「近代化」を成し遂げた要因としていくつか挙げられるが、確実にそのひとつは、江戸末期に日本全国にあった有志による「私塾」の存在がある。事実、幕末・明治期に活躍した偉人たちの多くは「藩校」ではなく、「私塾」から出ている。それは「私塾」のもつ自由闊達(かったつ)な雰囲気が人を育てたからに違いない。

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