富士吉田市で三代続く織物工場が目指す、「ハタオリ産地」の復興
ネクタイ生地の生産量日本一を誇る山梨県。人口減少と共にテキスタイルのニーズが縮小する中、地場産業を支える工場の二代目・三代目たちが、「ハタオリ産地」の復興をかけ奮闘している。その一社であるテンジンの小林社長に、自社の事業や「ハタオリ」たちと立ち上げたプロジェクトについて話を聞いた。
「日本一」のネクタイを止め、
リネン作りへ新たに挑戦
「ハタオリ産地」の異名を持つ山梨県郡内地域に、初めて織物が伝えられたのは紀元前219年との説がある。また、奈良時代の書物の中には、「甲斐の国は税金として布を納めるように」という意味の記述が残っている。どうやら、火山灰土壌で農業に向かないこの地域にあって、布を織る仕事は大切な収入源となる地場産業だったようだ。
「それが江戸時代になって、甲斐絹(かいき)が高級絹織物の代名詞として全国的に知られるようになったそうです。夏目漱石、近松門左衛門、井原西鶴らの作中にも登場していますし、江戸っ子は羽織の裏地に甲斐絹を使うことで粋を競ったとか。しかし、戦後に養蚕業が廃れ、洋装文化が根付くに連れ、甲斐絹の存在感は薄くなってしまいました」と語るのは、テンジンの小林社長。
同社の創業者である小林氏の祖父は、1940年代に郡内地域の一角である富士吉田市内で織物生産業を始め、布団生地などを作っていたという。二代目の父は、スーパーで生活用品が売れる時代に合わせ、洋傘の生地や輸出用コートの裏地、ネクタイ生地などを手がけて事業を広げていった。
「私が家業に携わったのは、今では山梨県が生産量日本一を誇るネクタイ生地に特化したばかりの頃でした。当時はバブル期でよく売れましたが、その後、クール・ビスやカジュアルフライデーの流れで、ネクタイの需要が下がっていきました。さらに、1990年後半頃には中国製など安価な商品が大量に輸入され、厳しい価格競争に晒されるようになりました」
ちょうどその頃、服飾専門学校を卒業した小林氏の妹が、欧州のアンティークリネンのコレクションを手に、「ネクタイの代わりにリネン作りはどうか」と勧めてきた。小林氏は欧州のリネンについて調べ始め、テキスタイル中心の生活文化に興味が沸いたという。
「勝算があったわけではありません。しかし、何もしなければ繊維業の地盤沈下と共に力が衰えていくだけ。とにかく、新しいものに挑んでみようという一念で、リネン作りを始めました」
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