人はなぜ学ぶのか 本居宣長とその周辺

学ぶ歓び

本居宣長の生きた一八世紀後半と現在とを単純に比較することはできないが、宣長の周辺を見ていてうらやましく思うのは、「学ぶ歓び」が横溢していることである。

身分制度の厳しい時代にあって、また庶民も旅を楽しむことができるようになったとはいえ、学ぶためには滞在も必要だろう。物見遊山と違って面倒なことも多かったはずだが、そのような困難を越えて、人々は宣長の住む松坂(松阪市)をめざした。

田中道麿は美濃国(岐阜県)、今の養老町の農家に生まれた人である。学問への思いを断ち切れず、放浪の後、名古屋で細々と古典教授を行っていた。ある時、宣長の本を読み、衝撃を受けてそのまま松坂を目指したという。その時の感動を、

此春、松坂より帰りて後は、誠に誠に其事しれる道丸(麿)と生れ替りたり

と書き表している。

京都での宣長の講釈を聞いた伊予国(愛媛県)の二宮正禎は、

先頃、鈴屋大人在京の時、御講釈に毎日出席仕り候。源氏・万葉おもしろき事言わん方なし。げに独歩の先生と毎日嘆息仕り候事に御座候

と郷里に報じた。

生まれ変わるほどの、またため息が出るほどの強烈な体験は、教える側もだが、学ぶ人の覚悟もまた問われる。みな真剣なのである。

 

 

本と末

後世、学問で世に知られることにはなるが、本居宣長の本業は医者である。薬箱を下げて往診する日々、さすがに還暦も過ぎると腰も痛く苦しいとぼやきもするが、このことで研究の自由は保障された。

全てに於いて「本と末」とを峻別せよ。これが宣長のスタンスだ。「本と末」とは、一番大事なことと、そうでないこと、本質と末端だ。これが逆転すると「本末転倒」だが、そこまでいかなくとも、宣長の見るところ、大事なことを忘れて、末端の事にかかずらわって、その本末を議論する人が余りに多い。そこで、これを「本末歌」という長歌に詠んで、門人に書き与えるのである。一枚書くのに一時間近くかかったはずだが、その労を惜しまなかったのは、これが全ての出発点だからだ。今、為すべきこと、最優先すべきことは何かを常に考えよというのである。

亡くなる前年、七一歳の時だが、学問に夢中になっている若者から、アドバイスを求められたことがある。宣長は、その少し前だが、やはり門人の懇望黙しがたく『うひ山ぶみ』と言う学問入門書を書いた。そこには、学問には近道はないのだ、自分で目標を見つけて、倦まず弛まず続けるしかないのだ、という至極当たり前のことしか書かれていない。それでもこの小著が未だに読み続けられているのは、五〇余年の実践の重みが一言一言に込められているからであるが、さて、その青年の願いに宣長はどう答えたか。ずいぶん考えて一首の歌を詠み与えた。

家のなり な怠りそね みやびをの

歌は詠むとも 書は読むとも

歌や本に親しむのも結構だが、家業だけはおろそかにするなという忠告である。ここには宣長の信念がある。それは、生活から離れては学問は成り立たないという考えである。

宣長にとって学問は、生きること、そのものであった。

本居宣長先生修学之地

堀景山の塾は、京都綾小路室町西入にあった。今、宣長先生修学之地の碑が建つ。

育つ

小林秀雄はその著書『本居宣長』で、宣長の思考の深まりを「育つ」と書いた。実に的確な表現である。商家に生まれた宣長が、『源氏物語』や『古事記』を生涯をかけて研究するに至る過程をたどってみると、ごく自然な流れで、そこには無理な力や飛躍はない。少年の頃、心の中に蒔かれた一粒の疑問の種が、人との出会いや別れ、また日々の営みの中で、すくすく成長していく。たとえば、その発端の処を見てみよう。

元服を間近に控えた一五歳の秋、「神器伝授図」という中国四千年の皇帝系図を写す。学問と言えば漢学だった時代である。勉学を終えるにあたってのおさらいでもあったろう。さて、完成した延々一〇mの長巻を眺めていて、ふと宣長は考えた、「中国」と「日本」は、歴史や文化の構造が違うのではないかと。中国の歴史や儒学を学んできたが、ではいったい私が住む日本とはどんな国か、という疑問が芽生えた。

一七歳の時、宣長は三一〇〇の地名や街道を書き込んだ大きな日本地図を作成した。

同じ頃、彼は京都に憧れ、和歌を独りで学ぶ。好奇心はぐんぐん拡がるが、何れも丁寧に、網羅的に、根源まで遡り探求することで、やがてそれらが一筋の流れとなっていく。

之を思い之を思い、之を思って通ぜずんば、鬼神将に之を通ぜんとす

と荻生徂徠は言ったが、一生懸命に考えると、誰かは手をさしのべてくれるものだ。

母の勧めで医者になるために上京した宣長は堀景山の塾に寄宿する。ある時、契沖の『百人一首改観抄』を貸してくれた人がいる。その人の名は記されていないが、「改観抄」刊行の立役者の一人、景山その人であろう。

この先生は、宣長の日記を読んでいると、歴史が好きで、もちろん講釈もするが、なにより平曲や月見や花見などに時間を費やすエピキュリアン(享楽主義者)であった。しかし、実によくこの難しい弟子を見てくれていて、ああこの男はただ歌を詠み満足するだけでなく、和歌のむこうには「和」、つまり「日本」があることを見ているのだと、契沖の証拠を挙げて論証する学問を紹介したのだろう。徂徠の学問や、後には『日本書紀』などを紹介するなど、絶妙のタイミングで手をさしのべてくれた。

来訪諸子居姓名住国并聞名諸子

宣長の下を訪れた人の名前を記す。

景山と言う師

宣長は先生に恵まれた人だ。学問形成に決定的な影響を与えた契沖とは書物を介してだけであったが、やはり書物から入り、「松坂の一夜」という僥倖があり、入門を許された賀茂真淵。医術の師・武川幸順も宣長のよき理解者であり、そして堀景山である。

景山は、学問だけでなく人格形成の面でも影響が大きかった。学者として一冊の随筆を除けば著作らしいものもなく、在世中から「光を包みたる人」だと噂されていた。「よく分からないがきっと偉い人なのだろう」というニュアンスか。弟子も多かったはずだが、宣長以外は一切不明。もし仮に宣長の記録がなかったら歴史の闇の中に消えてしまったそんな人である。いや実際に、やがて宣長の学成り、帰郷する直前に景山は死去する。宣長のために生まれてきた人ではなかったかと思う。人生にはこんな不思議もあるのだ。

自分で考えるというスタイルの宣長にとっては、厳しく理詰めで教える先生よりも、ゆったりと育つのを見守ってくれる景山のような先生が必要だったのだろう。

鈴屋円居の図

「円居」とは輪になって座ること。今で言うサロン、サークル。宣長と門人の姿を描く。向かって左端が宣長。

国学者として 後代に遺す足跡

その景山塾で成長した宣長は、やがて師とは全く逆の道を歩むことになる。

国学者として『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』、『字音仮字用格』など数々の著作を残すが、活動の中で研究の占める割合はおおよそ六割から七割で、残り三割、四割は普及であった。講釈、出版、また徹底した質疑応答と情熱を以て自説を弘めた。生涯に刊行した図書は三〇種、準備まで含めると五〇に近くなる。師の景山とは対照的であるが、売名行為ではない、学問は独りの力で究められるものではない。次の人にバトンを渡すためなのだ。宣長はそのような使命感を持っていた。

宣長は、「師の説になづまざること」、つまり師説をも乗り越えよと後進を励まし、添削や質疑に倦むことがなかった。その覚悟の程は、『うひ山ぶみ』で五〇〇年後、千年後に自説を認めてもらえたらとも書くことから窺えよう。これは『古事記』が書かれて一千年後に、また『源氏物語』で七五〇年後に自分という読者と巡り会ったという自負に裏付けられた数字であるが、大変長い時間軸で学問を考えているのである。

さて、学問を楽しむ景山と、本業は別にあっても志をもち研究を続ける宣長と、対極にある二つの人生だが、どちらが貴いかというと、なかなか難しい。

高邁な理想を抱く真摯な学問も必要だが、一方では新しいパラダイムを構築するような人を育てようとするなら景山タイプの師が望ましいだろう。

弟子も同じである。宣長の下に集まった人たちは、時には師の教えに背き生活を犠牲にしてまで学び続けた。それが研究に於いて新機軸を打ち出すのではなく、自分の向学心を充足するためであったとしても、たとえば「物のあはれを知る」と言う文学説に触れ、人の心の深奥を知った人や、五〇〇年、一〇〇〇年という長大な時間を見据える学問に触れ心を震わした人が、津々浦々にいたことの持つ意味は大きいと思う。

宣長が亡くなったのは一八〇一年、日本はいよいよ近代に向けて歩み出す。

吉田 悦之(よしだ・よしゆき)
本居宣長記念館 館長

 

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