山の上の小さなパン屋 社会貢献の実現へ、年商40億円を目指す

長野県東御市。最寄りの公共交通機関などない、山道を登った先にぽつんと建つ一軒家の店<わざわざ>。東京からこの地に移住し、ひとりで始めた移動販売のパン屋が今では年商3億円の企業に成長。個人事業主から社長となった平田はる香はキャリアを重ねる毎に失敗し決断を積むことで成功を導いた。その源には「社会をよくするために役立ちたい」という強い思いがある。

文・油井なおみ

 

平田 はる香(株式会社わざわざ 代表取締役)

10代で自立を目指し
社会や経済についても探求

「子どもの頃はとにかく『なぜなに』の子。学校などのきまりも、なぜそれをやらなければいけないのか理解したい。その上でやるかやらないかの選択権は自分が持っていると考えていたんです。面倒くさい子だったと思います」

そう笑う平田はる香。静岡県の小さな町で高校まで過ごすが、とにかく家を出て自立したいと東京へ。夜間のスタイリストの専門学校に入学した。

「生徒は社会人がほとんどで恐らく自分が最年少だったと思います。とにかく課題が多く厳しかったので、どんどん周りが辞めていくんです。自分はスタイリストの仕事に興味はなかったのですが、辞めても帰る場所はないと思い、なんとか卒業しました。でも、将来どうすべきかは見えないままで」

卒業後は、友人の紹介でファッション誌の編集部でアルバイトをスタート。その頃、ようやく目標も見つかった。

「バイトで生計を立てながらクラブDJを目指しました。とはいえ、DJでの収入は全くなくて、自分でお金を払ってクラブを借り、イベント運営を学びながら、パーティを企画し、集客もして、お金はカツカツ。当時はインターネット黎明期。集客の為にWEBサイトを作ろうと思い立ち、安いパソコンや本を買い込み、独学で技術を身につけました」

WEBサイトを立ち上げるようになると思わぬところから声がかかった。

「サイトを見た人たちからWEBデザインの仕事が舞い込むようになったんです。DJでは食べられませんでしたが、編集部のアルバイトは辞められました」

当時はまだ20代前半。お金がないからと単純にアルバイトを増やすのではなく、WEBデザインを必死で学んだというところが興味深い。

「社会に興味があって、中学生の頃からいろんな職種のアルバイトしてきたんです。それで、業種を変えても、時給でしか換算されないお金の稼ぎ方ってナンセンスだと感じて、時給換算ではないお金の稼ぎ方について早い時期から考えていたんです。まずは親がやっていた株式投資という考え方。投資するのは株だけとは限りません。自己に投資して技術を身に付ければ、自分の価値を上げることができ、いずれはリターンされる。そう考えていました。あと当時話題だったロバート・キヨサキさんの『金持ち父さん貧乏父さん』やウォーレン・バフェットの本なども読んでいて、インスパイアを受けていたと思います。ただ当時は、社会に全く目が向いていなくて、自分の夢や欲求に素直に生きていました」

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