海外ブランドも注目する織物メーカー 社員7名、我が道を行く強み

1兆3000億円の国内市場がありながら、97%を海外からの輸入品が占める繊維業界。わずか3%のメイドインジャパンを支える生地メーカーが静岡県浜松市にある。なぜ従業員7人の会社が日本と世界で高い評価を受け、海外製品に負けず90年も経営を続けられたのか。独自の生存戦略について話を聞いた。

古橋 敏明(古橋織布 代表取締役)

静岡県西部、遠州地方は江戸時代より、温暖な気候を生かした綿の栽培が盛んだった。綿織物が盛んな土地柄を背景に、トヨタ自動車の前身である豊田織機の創業者豊田佐吉が、自動織機を開発した。遠州の織機メーカーが前身である企業は多く、スズキ自動車も前身は鈴木式織機製作所だった。

繊維から糸を作る紡績メーカーも競うように工場を作り、日本を代表する繊維の街を作り上げた。しかし、古橋織布社長の古橋敏明氏が36歳で代表取締役に就任した頃から、雲行きが一変する。沖縄が日本に返還され、1ドル360円で固定されていたドル円為替レートが変動相場に移行した。

以降、円高が進み、人件費も上昇。大手紡績メーカーから順番に、工場は海外に移転していった。また、海外から安くて品質の良い生地が輸入され始めたことも国内の繊維産業の衰退に拍車をかけた。当時静岡県内にあった3000社以上の織屋や工場は、現在100社ほど。生産量は100分の1まで落ち込んでいる。この危機的な状況は「遠州地方だけではなく、日本全体で起きていること」と古橋氏は言う。

しかし、全国的に工場の閉鎖や事業撤退があった中でも、古橋織布は生き残ってきた。同社の強みとなったのは、低速のシャトル織機を使っていたことだった。

シャトル織機のシャトル、「杼(ひ)」。これを往復させることで布を織りあげる。古橋織布では古い織機をメンテナンスしながら使用している

糸から織物を作る機械として、比較的低速のシャトル織機(有杼織機)と、高速の杼を必要としない無杼織機として、レピア織機、エアージェット織機、ウォータージェット織機などがある。シャトル織機が主に生産されたのは、1960~70年代にかけて。1980年ごろには生産を終え、高速のレピア織機が工場で使われるようになった。大量生産向けのレピア織機は、シャトル織機の3~4倍の量を織れる。例えば、1メートル100円の委託工賃で仕事を受けた場合、シャトル織機は1日5000円しか織れないところを、レピア織機なら2万円近く稼げるということだ。遠州でも、多くの織屋がこの高速の織機に乗り換えていった。しかし、古橋氏は周りに流されず、我が道を行くことに決めた。自社にシャトル織機を使ってきたノウハウが蓄積していたこと、そして同志に出会えたことが大きいと言う。

「浜松地域で20~30人ほど、同じような2代目、3代目の社長がいた。当時は未熟でしたが、一致団結をして、この危機を乗り越えようとしたのです」。

シャトル織機は生産に時間がかかる反面、ふわっとした独自の風合いを得意としている。この独特の風合いが、プライベートブランドや小さなアパレルメーカーに評価された。小さなブランドが、他との差別化に使える選択肢の1つが、良い生地だ。シャトル織機は小ロットでの需要に対応でき、シーズンによって色やデザインを変えたりするにもうってつけだった。

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