板金技術とアイデアで、地域と人を循環させる 「和國商店」の試み
(※本記事は東京都が運営するオンラインマガジン「TOKYO UPDATES」に2024年9月20日付で掲載された記事を、許可を得て掲載しています)
2024年1月、東京・東村山の青葉商店街に、建築家の隈研吾氏がデザインしたカフェ「和國商店(わくにしょうてん)」がオープンした。約700の銅板が外壁を覆う同店はオープン間もないながら、地域の人や遠方からのお客が訪れる。仕掛け人で株式会社ウチノ板金代表の内野友和氏に、オープンまでの経緯や店に込めた思い、同店を発端とした地域の循環などについて聞いた。
自由なものづくりをかなえる板金技術の可能性
「和國商店」を運営するウチノ板金。1990年の創業以来、地域に根ざしながら、金属を加工する板金技術を使い、住宅の屋根や外壁などの工事を請け負っている。同社の代表を務める内野氏が板金職人になったのは、今から25年以上前の18歳の時。家業を継ぐつもりはなかったものの、次第に板金の世界に引き込まれていったと言う。
「柔らかくて、折り曲げやすくて、切りやすい。そんな金属の汎用性の高さに面白みを感じました。金属の特徴と板金の技術を活かせば、オリジナルのものも生み出せるかもしれない。アートに近しい可能性を感じました」
内野氏が話す通り、現在ウチノ板金では、フランス人作家と一緒に製作した動物モチーフのオブジェや、銅板の折鶴といった熟練の技が光るプロダクトも手がけている。
「実際に手を動かしてみたら、これまでの板金の技術を活かしてものづくりができることが楽しかった。そしてプロダクトとしてお客さんに届けたら、『板金ってこんなことができるの?』と驚かれることも多くありました。僕としても、板金の技術や魅力を知っていただけることがすごくうれしかったです」
昨今では、フランスの学校やドイツの日本大使館といった公的機関で板金折鶴を製作するワークショップも開催。国内だけでなく、海外からの認知度も上がっている。
不意に訪れた隈研吾氏との出会い
「和國商店」がある青葉商店街は、内野氏が生まれ育った思い入れのある場所だ。月日がたつにつれて商店の閉店が相次ぎ、人通りもまばらになっていくなかで、内野氏は「地域の力になりたい」という強い思いを抱いていた。
「商店街が寂しくなっていく様子を近くでずっと見てきました。だけど、こんなに人がいなくなったのは街が過疎化したわけではなく、街の人が交流する商店の閉店といったソフトの面が大きい気がしました。街内外の人が訪れたくなるような場所ができたら、きっと街が生まれ変われる。いつか自分がその一端を担えたらと考えていました」
「数年先でもいいから面白いことをやる」。そう心に誓った内野氏は商店街の一角にある築52年の物件を後先考えずに購入。そこで何をするかも決まっていなかったが、知人に誘われて隈研吾氏の設計事務所を訪れたことが「和國商店」を構想するきっかけとなった。
「5分だけ隈さんにお会いできることになって、地域活性化のための力になりたいという思いを打ち明けたところ、その場で『一緒にやろう』と即決してくださった。それで隈さんサイドと何度も話し合いを重ね、僕らの板金技術をもっと広く知っていただけるような場所を作ることに決まったのです」
人が循環すれば、街が元気を取り戻せる
ウチノ板金の板金技術と隈氏のデザインを掛け合わせて完成した「和國商店」。なかでも一際目を引くのは、約700個の緑青銅板を使った外壁だ。広島県廿日市市の速谷神社で60~100年前から使われていた緑青銅板を譲り受け、板金の技術を使って五角形に再加工。技術と職人の魂を注ぎ込んで半年かけて作り上げた。
「昭和期に流行した銅板を使った看板建築が外壁のアイデアの基になりました。しかし、そもそも銅板を立体化させているもの自体がほぼなく、技術的にも非常に難しい。その一方で、ワクワクしている自分もいました。誰もやったことがないことに挑戦できるし、板金職人としての腕の見せ所だと感じましたね」
こうして出来あがった空間には、地域の人はもちろん、都心や地方、海外からもお客が集まってくる。静かだった商店街に人の流れを再び呼び込んだ内野氏は、「古いものにアイデアと技術を注ぎ込めば、新たに価値のある空間を生み出せる」と話す。
「古くからあるものに新しいものをかけ合わせれば、きっと人を惹きつけられると思います。まだまだ道半ばだし課題は山積みですが、『和國商店』を皮切りにこの商店街で新しいことに挑戦する人が増えたら、さらに人の流れを作れ、地域も元気を取り戻せるはず。そういう循環をこれからも生み出していけたら」
取材・文/船橋麻貴
写真/穐吉洋子
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