アビリティーズ・ケアネットが描く“自立支援社会” ── 福祉とビジネスをつなぐ進化する構想

1964年のアビリティーズ運動開始から60年、障害者や高齢者の「自立と社会参加」を支援する事業を展開してきたアビリティーズ・ケアネット株式会社。医療や介護の枠を超え、誰もが尊厳を持って暮らせる社会の実現を掲げる。その歩みを牽引してきたのは、伊東弘泰氏だ。1歳でポリオを受症し、障害者への偏見と闘いながら社会変革を実現してきた経営者が語る「進化する構想」とは何か。
偏見と闘った学生時代
伊東氏は昭和17年(1942年)の生まれで、1歳でポリオを受症し、幼少期から社会の偏見と向き合うことになる。「障害があるというだけで、世の中に当たり前に生活できない状況があった。これを何とかしなければと強い怒りを感じていました」と振り返る。
小学校入学時には地元の学校から入学を拒否されたが、昭和22年父親がソ連での抑留生活から帰国したことで東京の羽田に移ると、何の問題もなく入学できた。しかし高校受験では、試験に合格したにも関わらず、体育教師が「体育の授業に参加できないから入学させるわけにいかない」と反対。職員会議で紛糾する中、ただ一人の教師が「障害があるだけで入学拒否するのはおかしい。体育の授業に参加できないからとの理由で全ての授業を受ける権利を奪ってよいのか」と熱弁を振るい、伊東氏の入学が実現した。
「その先生の息子さんも障害があったのです。自分のことのように考えて支援してくださった。もしその方がいなければ、私は都立高校に入れませんでした」
こうした体験が、後の企業理念「自立と社会参加」の原点となっている。
運動開始と印刷業での出発
1964年4月、大学を卒業した翌日、伊東氏は「障害者でもできることを証明しよう」と決意し、大田区の区民会館でアビリティーズ運動を立ち上げ、この時が社会変革・運動への第一歩となった。きっかけは、アメリカのアビリティーズ社との出会いだった。同社は従業員300人全員が障害者という画期的な企業で、朝鮮戦争で障害を負った元兵士たちが中心となって運営していた。
「日本版アビリティーズを作ろうと思い、まずは印刷業から始めました。障害者の職業訓練として和文タイプライターを使った印刷業を選んだのですが、最初の2年間は赤字続きでした」
創業当時の困難は資金調達にも及んだ。銀行は融資を断り、国民金融公庫でさえ「障害者がやって採算が取れるはずがない」として、わずか30万円の融資に留まった。それでも徐々に仕事は増え、20人規模まで成長したが、今度は近隣住民から「物騒だから出て行ってくれ」と立ち退きを求められた。
転機となったのは、カトリック教会レデンプトル会の神父との出会いだった。「空いている部屋があるから使いなさい」と支援を受け、長年にわたって事業継続の基盤を築くことができた。
電動車椅子による事業転換
1970年代初頭、アメリカ視察で印刷業の限界を感じた伊東氏は、事業の大転換を図る。コンピュータの普及により印刷業界が激変する中、新たな事業領域として福祉機器の輸入・開発に着目した。
「日本には電動車椅子は全くありませんでした。各国の大使館を回って情報を集め、イギリスの会社と契約を結びました」
転機となったのは、有楽町から銀座4丁目まで電動車椅子で移動するデモンストレーションだった。朝日新聞が大きく報道すると、3日間で多数の注文が殺到した。「マスコミの力の大きさを実感しました。社会を変えるには、多くの人に知ってもらうことが不可欠です」
法制度改革への挑戦
伊東氏の活動は商品提供にとどまらず、社会制度の変革にも及んだ。1970年代、原健三郎労働大臣に手紙を書き、障害者雇用促進のための法律改正を提案。大臣はアメリカのアビリティーズ社まで視察に赴き、5-6年の議論を経て障害者雇用促進法が成立した。
「当初は従業員300人に1人の雇用義務でしたが、現在は40人に1人までの採用を前提とすることに改善されました。法律を変えることで、社会全体の意識が変わってきました」
2009年には鳩山由紀夫総理大臣と面会し、障害者差別禁止法の制定に向けた要望書を提出。13団体で構成する障害者団体の代表として、制度改革の最前線に立ち続けた。
イオンとの画期的協業
1980年代には、イオン(当時ジャスコ)の岡田卓也社長の協力を得て、「アビリティーズジャスコ」を設立。仙台に300坪の大型書店を開設し、10人の障害者スタッフで運営した。労働省から1億円の補助を受け、わずか3ヶ月で東北地区書店売上10位以内に躍進する大成功を収めた。
「障害者が働く場としてだけでなく、健常者と一緒に働く環境を作ることが重要でした。最終的に3店舗まで拡大し、40年以上続く取り組みとなりました」
バリアフリー建築への進出
30年前から本格化したのが、バリアフリー建築設計・施工事業だ。1級建築士2名、2級建築士5-6名を擁し、ホテルや学校施設バリアフリー化への改修を中心に展開している。
「福井市では60校、荒川区でも多数の学校でトイレ改修を手がけました。従来工法では大規模な解体と床下配管が必要で高コストでしたが、独自のユニットと強力ポンプシステムにより天井裏配管で対応することで、2〜3日で完工するシステムを確立し、大幅なコスト削減を実現しています」
近年は空港のバリアフリー化にも参入。日本航空グループとも連携し、離島を含む全国の空港整備に取り組んでいる。
旅行という新たな可能性
「私と同様に学校の遠足にも行けなかった人たちに旅行の機会を」との思いから始めたツアー事業では、まず観光バスを使った日帰りツアーからスタートし、次に北海道や沖縄などへの2〜3泊の国内宿泊ツアー、そして最終的には2〜3週間程度の本格的な海外ツアーまで、段階的にプログラムを展開している。
「脳卒中で倒れ、家族も諦めていた方が沖縄ツアーに参加し、3年後に杖1本で歩けるまで回復した例もあります。気持ちが変われば体も変わるんです」
組織運営と人材育成
現在のアビリティーズ・ケアネットは従業員約800名、全国20拠点を展開する企業に成長した。障害者と健常者が一緒に働く職場環境を重視し、「障害者だけでやるのではなく、一緒に働く」ことを基本方針としている。技術スタッフは200名を超え、かつては全国を200台以上の車両で巡回していたが、近年はオンライン対応を取り入れ、効率性と品質の両立を進めている。
伊東氏はこうした組織運営に加え、地方での人材確保の課題にも言及する。
「地方では高齢者が増加し、若い人材は都市部に流出する。地元で働ける人材を育成し、高齢者が住み続けられる環境を作ることが重要です」
地域に根ざした人材育成と拠点づくりは、同社が全国で展開してきた事業活動の根底にある考え方でもある。
一貫した経営哲学
伊東氏は一貫して「世の中に必要なことをやる」「他がやっていることの真似はしない」という経営哲学を掲げている。
「1回しかない人生だから、意義あるものにしたい。障害の有無に関わらず、誰もが自分らしく生きられる社会を作りたい」
現在進行中の学校教育改革についても、「昨年4月から、障害のある児童生徒について親が希望すれば通常学校が受け入れなければならなくなった」国の制度変更を評価しつつ、「まだ環境整備が不十分」と指摘する。
デジタル化と海外展開
事業運営においてデジタル化を積極的に推進し、オンライン相談体制の構築により全国対応を効率化。一方で製品開発では海外提携を重視し、「アメリカやヨーロッパの進んだ技術を日本の生活環境に適合させる」戦略を継続している。
台湾には現地法人を2拠点設置し、アジア市場への展開も進めている。「アジア全体がまだ遅れているので、日本の経験やノウハウを活かせる領域は多い」と展望する。
持続可能な社会インフラへ
高齢化が加速する日本社会において、アビリティーズ・ケアネットの役割はさらに重要性を増している。伊東氏は「高齢になったら当たり前のことができなくなるような社会にしてはいけない」と強調する。
「障害者に対する特別なことではなく、どういう状況の人でも充実した生活ができるような環境を整えることが当たり前だと思います。それは障害者だけでなく、高齢者にとっても必要なことです」
事業構想としては、知的障害・精神障害への対応拡充、地方創生への一層の貢献、アジア市場での事業展開拡大を掲げる。創業から60年、社会変革への情熱を持ち続ける経営者の構想は、次世代へと引き継がれていく。
「私たちの取り組みは福祉を超えた社会インフラの構築です。誰もが人生のどこかで必要とする仕組みを、どうデザインし直すかが日本社会の鍵になる」
アビリティーズ・ケアネットが描く“自立支援社会”は、単なる理念にとどまらず、具体的な事業活動として着実に形になりつつある。その構想は進化を続け、包容力のある社会の実現に向けた道筋を示している。
