「真摯なリーダー」が共感を広げる 稲盛和夫らに学ぶ事業構想

事業構想を成し遂げるには共感の創造が必要である。京セラの稲盛和夫氏やパナソニックの松下幸之助氏は社内外に多くの共感者を集め、事業を飛躍させ、経営危機を乗り越えた。共感を創造することができるリーダーの条件について考察する。

稲盛氏への共感

稲盛和夫氏は、大学で応用化学を学び、1955年の卒業後、京都の松風工業に入社した。同社は、電線の絶縁体として使用される碍子を製造・販売していた。稲盛氏は、入社後すぐに研究員として新しいセラミック材料の研究開発に取り組んだ。難しい仕事だったが、かなりの成果をあげる目途が立ちはじめた。その頃新参者の上司の技術部長と対立し、松風工業を退社した。

直後の59年に稲盛氏は京都セラミック(現京セラ)を設立した。このとき、松風工業時代に稲盛氏に信頼を寄せていた優秀な同僚や部下たちが雪崩を打つように京都セラミックに移籍した。彼らだけでなく、松風工業時代に稲盛氏にほれ込んだ一部の上司も稲盛氏と行動をともにした。ベンチャー企業には、優秀な技術者を確保することが何よりも重要だ。彼らの転籍がその後の同社の飛躍につながった。

1959年京セラ創業時のメンバー(提供:京セラ株式会社)

このように、稲盛氏のまわりに多くの共感者がいたから、京都セラミックが奇跡的な躍進を遂げることができたといえる。

松下氏への共感

1932年、松下電器(現パナソニック)の創業者松下幸之助氏は従業員を集めて訓示をした。「産業人の使命は、水道の水のごとく物資を豊富にかつ廉価に生産提供することである。それによってこの世から貧乏を克服し、人々に幸福をもたらし、楽土を建設することができる。わが社の真の使命もまたそこにある」。松下氏の持論である「水道哲学」を説いたのである。

松下氏の熱い語り口は従業員を奮い立たせ会場は騒然としたという。松下氏は、この訓示により多数の従業員の共感を得た。

戦後右肩上がりで躍進を続けていた松下電器にも、大不況の波が襲った。当時の状況について、松下電器の社史につぎのように述べられている。

「高度成長を続けてきた日本経済は、1964年の東京オリンピックブームのなかで深刻な反省期を迎える。高度成長の行き過ぎで金融が引き締められ、景気は急速に後退した。年率30%もの成長を続けてきた電機業界も、主要商品の普及一巡で伸び率が鈍化したところへ、金融の引締めが重なり、需要が停滞し、設備過剰が表面化して深刻な影響を受ける」

この大不況の中、同社は経営体質の改善に総力をあげて取り組んだが、市況は一層悪化した。1964年11月期の半期売上は1950年以来、初めて減収減益となった。販売不振により、販売会社(代理店)の大半が赤字経営に陥り、販売会社のオーナーたちの松下電器に対する不満が膨れ上がった。翌65年、松下氏は全国の販売会社のオーナーを熱海に集め懇談会を開いた。世にいう「熱海会談」だ。

「熱海会談」では、オーナーたちの不満が爆発した。つぎつぎに苦しい経営の実情や松下電器の製品や販売施策への苦情を訴えた。松下側も販売会社の自主的な経営努力を強く求めるなど、両者の間に激しい応酬が続いた。

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