今治タオル、製紙産業など 歴史から紐解く愛媛製造業の強さ

愛媛県東予地域の製紙産業や今治タオルは、江戸時代の地場産業から進化したものだ。地場産業は変革期の荒波をどう乗り越え、どんな遺伝子を今に残したのか。太平洋戦争末期に書かれた地場産業研究書を読み解き、分析する。

愛媛県の製造業は、瀬戸内海に面する東予地域に約70%が集中している。その東予地域では、大きく3つの産業集積がみられる。一つは四国中央市を中心とした製紙産業、二つめは今治市を中心とする造船産業、タオル産業。三つ目は新居浜市、西条市を中心とする重化学工業である。

四国中央市の街並み。臨海部には製紙工場群が見える

全国でも有数の地場産業県

愛媛県の製造業の歴史的には、二つの系譜がみられる。ひとつは、江戸時代中期から住友家によって開発された別子銅山の採鉱や関連産業である。住友家は明治以降に多角化をはかり、「企業城下町」を形成した。銅の採鉱や精錬に必要な機械の修理のために設立された「住友重機械」(1888年)、坑道を支える支柱として大量の材木が切り出され、はげ山になった山林を計画的に植林するために設立された「住友林業」(1898年)、精錬する過程で発生した亜硫酸ガスを処理して肥料を製造するために設立された「住友化学」(1913年)などである。もうひとつは、江戸時代後期からの伊予八藩の殖産興業政策によって生み出された地場産業である。

東予地域の製造業は、江戸時代の地場産業を土台に発展した(歌川広重「六十余州名所図会・伊予西条」)

愛媛県の地場産業の歴史は、太平洋戦争末期に松山高等商業学校(現松山大学)賀川英夫教授による地場産業研究の名著『日本特殊産業の展相―伊予経済の研究―』(賀川英夫編・1943年)に詳しい。「特殊産業」とは「地場産業」のことである。

同書で取り上げられている主な地場産業は、伊予絣(いよがすり)、今治綿業、伊予和紙である。

伊予絣は衰退してしまったが、今治綿業は「今治タオル」に、伊予和紙は、四国中央市の製紙産業につながっている。

時代の変化に対応できなかった「伊予絣」

伊予絣は、江戸後期から松山地方の地場産業であった綿業の発展形として、鍵谷カナが創始したものとされている。松山藩の保護を受けた綿産業をベースに、家内制手工業として発展した。

明治10~20年頃から本格的に生産高が増え、日露戦争(1904年~)の頃には国内トップシェアとなった。しかし、第一次世界大戦(1914年~)をピークに、西洋化と洋装の普及と相まって、次第に衰退した。

「このようなことは、何も伊予絣に特有なことではない。機械化の波に乗れなかったこと、生活様式の西洋化に対応できなかったこと、海外需要も取り込めなかったことが衰退の原因(主旨)」と同書では指摘する。

日露戦争期に国内トップシェアを誇った「伊予絣」は、時代変化に対応できず衰退した

藩主の保護を受けなかったことが発展の要因

現在、愛媛県内での製紙産業は、そのほとんどが四国中央市に集積している。2013年度の出荷額は約6000億円(工業統計)である。大王製紙、ユニ・チャーム、リンテックなどの工場が立地している。

愛媛県は、江戸時代より和紙の産地として有名であった。全国約40か所の和紙産地のなか、土佐(高知)、美濃(岐阜)、石見(島根)、駿河(静岡)、越前(福井)と並んで重要産地とされていた。四国では和紙の原料となるミツマタ、コウゾがよくとれているということも和紙の産地形成のきっかけとなっている。

愛媛県内では南予の大洲、宇和島、宇摩郡(現在の四国中央市付近)が三大産地であった。そのうち、大洲、宇和島については江戸時代に藩主の保護政策と振興策によって発展した歴史がある。明治維新によって、藩の保護政策が失われたことによって、大洲と宇和島は産地として衰退していった。

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