点と点を繋げ 次の100年へ 「よそ者」が生み出すイノベーション 株式会社ヨシダ
(※本記事は「関東経済産業局 公式note」に2025年3月28日付で掲載された記事を、許可を得て掲載しています)

経営者の情熱を発信する“Project CHAIN”第56弾。
今回は、茨城県水戸市の金属加工業、株式会社ヨシダ 代表取締役 米川 周佑(よねかわ・しゅうすけ)さんです。
元は生命科学の研究者であった米川社長。32歳でヨシダに入社しましたが、サラリーマン経験はほとんどなく、茨城県出身でもなく、専門分野も全く違う、「よそ者」でした。そんな米川社長の挑戦とこれまでの歩みに迫ります!
──御社について教えてください。
当社は、母方の家系が経営してきた会社で、2023年に創業100年を迎えました。
原子力や医療、航空宇宙分野に関連する金属加工を営んでいます。

放射性物質からの隔離に必要な製品として知られるグローブボックスや、国際宇宙ステーション「きぼう」内で使用するシステムなどを扱っています。
設計、機械加工、製缶溶接まで一貫して取り組めるのが強みです。厚生労働省が選定する「現代の名工」として表彰された社員もいます。

最短距離ではなかったからこそ、得られた学び
──ヨシダに入社するまでの経緯を教えてください。
学生の頃から、ヨシダのことは、頭の片隅で気になってはいましたが、正直なところ、自分が会社を継ぐ気はあまりありませんでした。
大学では、学部で一番厳しいと言われた研究室で、生命科学の研究に打ち込みました。
物事を突き詰める性格だったこともあり、頑張れば頑張るほど結果が出る研究の世界は非常に面白かったです。
博士号取得後、研究者としてドイツに赴くことになりました。
しかし、空港へ向かう車の中で、なぜか、この先ヨシダはどうなるのかと気になってしまったのです。
長年、社長としてヨシダを支えてきた祖母は既に高齢でした。専務である母が今後一人でヨシダを支えるのは大変です。母からは、ヨシダを売却するかもしれないとも聞かされていました。
ヨシダはもうすぐ100周年を迎えるのに、誰も継がないかもしれない。このまま無くしてしまっていいのだろうか。
気づくと、私は、母に向かって、「俺、将来ヨシダを継いでもいいよ」と口にしていました。
「今からドイツに行こうとしている人間が何を言ってるんだ」と母からは言われましたが(笑)。
私がヨシダを継ぐことを明確に意識したのは、そこからでしょうか。

──ヨシダ入社前に議員秘書も経験されたのですよね。
私は、生まれは茨城県ですが、高校生までは岡山県で育ったため、ヨシダが所在する茨城県のことはよく知らない状況でした。経営者になるには、会社を知るのと同時に、地域を知ることも重要だと考えました。そこでヨシダに入社する前に、茨城県を地元とする国会議員事務所で3年ほど公設・政策担当秘書として働きました。

秘書時代は働き詰めでしたが、元来負けず嫌いな正確だったので、深夜に資料のやり取りをして、先生が先に寝たら「よっしゃ!」と喜ぶ、そんな日々でした(笑)。
先生には、本当にかわいがってもらいました。先生も茨城県外出身なので、「よそ者」が地域に根差した活動をするとはどういうことか、とても勉強になりました。国の政策や予算の大きな流れ、茨城県全体の現状や地域特性など、多くを学ぶことができました。
また、この経験によって度胸がつき、誰が相手でもフェアに話すことができるようになりました。
──その後、ヨシダに入社されます。最初はかなり苦労されたのではないでしょうか。
私は金属加工の技術や知識が全くなかったので、ホームページ経由の問合せ対応から始めました。地道な作業ですが、問合せに対して自分で返す、わからなければ社員に聞く、そしてさらに勉強する。この過程で、知識を身につけ、社員とも関係性を深めることができました。
ほどなくして、経営計画策定にも着手しました。ヨシダの事業や技術を因数分解し、やはり軸になるのは、大量生産品ではなく、“オーダーメイド”のグローブボックスだと確信しました。
研究者をしていたからこそ、放射性物質からの隔離がすごい技術だと理解できたし、他の分野にも事業展開できるものだと思ったのです。

(左から)廃炉向け、訓練用、放射線医薬品用 画像提供:株式会社ヨシダ
──これまでの仕事で特に思い出に残っている出来事を教えてください。
本社工場を竣工するにあたって初めて融資を受けることが出来た日のことは、今でもよく覚えています。
自分のことを信じて融資を決めてくれた金融機関の方への感謝と、融資を得るまでに感じた悔しさを忘れないように、毎年、融資が決まった日に当時の担当者の方に電話をしています。当時の思いを忘れず、決して思い上がらないようにするためです。

もうひとつ印象に残っているのは、とあるお客様から受けた難しい案件への対応です。
翌日に立会検査が迫る状況下、どうしてもクリアできない技術的な問題が残り、当社幹部とともに朝4時まで懸命に対応するも、その時は断念せざるをえず、お客様にお詫びしたことがありました。
しかし、後日、そのお客様から「また一緒に仕事をしたい」と言っていただきました。その後検査を無事に終えることができたことに加えて、ぎりぎりまで努力した過程を見てくださったようで、とても嬉しかったです。
最後の最後までお客様のために一生懸命に対応する、そんな経験を重ねることにより、ヨシダの技術力はさらに磨かれていくと思いました。
私が入社してから、難しい案件を積極的に受注するようになり、辞めてしまった社員も多かったです。今でこそ社員から「社長は一人で突っ走るからな」と冷やかされますが、当時は正直辛かったです。
今があるのは、ぶつかりながらも、ヨシダに残って、ついてきてくれた社員のおかげです。

多様なバックグラウンドを成長の力に
──地方での会社経営について、どんなことを考えますか?
地方の人口が減少する中で、優秀な人材を雇うには、地元を住みやすく働きやすい場所にしていかなければならない、という危機感を持っています。
また、持続的な成長のためには「外の視点」が大事です。ヨシダには、県外の方や大企業からの転職者なども多く入社しています。多様なバックグラウンドを持つ社員が活躍できる環境を作るよう意識しています。
また、社員やその家族には、茨城や日本の当たり前が、海外では当たり前ではないことがあることに気づく機会や、新しいことに触れる機会を持ってもらうべく、社員の家族も参加できる海外研修を実施するなど、日々、取組を進めています。
──ヨシダの次の100年の展望を教えてください!
私が感じる経営の面白さとは、「点と点を繋げる」ことです。私は遠回りをしてヨシダにたどり着きましたが、その過程で得られたものを強みに、新しいことに挑戦することで、異なる分野の技術を繋げ、課題を乗り越えてきました。
今後も、日々協力会社から寄せられる「こんなことできないか?」という問いかけに正面から向き合い、社員と一緒に成長していきたいです。
挑戦し続けてきたからこそヨシダは100年を迎えることができました。ベンチャー企業かどうかは、マインド次第だと思いますので、ヨシダは100年経ってもベンチャーです。
技術的に非常に難しい分野だからこそ、挑戦し続けることでイノベーションを起こす。「宇宙に原子力発電所をつくる」、そんな時代がきたら面白いですね。
「To make the impossible possible」!


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- 関東経済産業局 公式note