万博──1970年から2025年へ!巨大プロジェクトが描き出した未来とは
(※本記事は経済産業省が運営するウェブメディア「METI Journal オンライン」に2026年6月1日付で掲載された記事を、許可を得て掲載しています)
日本の万博との関わりは、近代国家としての歩みそのものだ。明治期、新政府はパリ、ウィーンの万国博覧会に出展し、西洋技術の吸収と自国産品の輸出振興を同時に図った。国内では、第1回内国勧業博覧会を皮切りに、産業振興を図る目的で何度も博覧会を開催している。
戦後、復興を遂げた日本が、1964年(昭和39年)の東京オリンピックの次に、その経済的な成功を内外にアピールする国家プロジェクトとして開催されたのが、1970年日本万国博覧会(70年大阪万博)だった。それは、2025年日本国際博覧会(2025年大阪・関西万博)へとつながっていく。「昭和100年 日本産業の軌跡」の第5回は、二つの万博を軸に、巨大国家プロジェクトが、果たした役割を探った。
先進的なコンセプト。「進歩と調和」
「人類の進歩と調和(Progress and Harmony for Mankind)」──。
1970年(昭和45年)の70年大阪万博が掲げたテーマは、技術文明の進歩を称(たた)えるだけでなく、環境悪化や社会問題への視線も併せ持つ、先進的なものだった。この万博で通商産業省(現経済産業省)は、万博の内容、メッセージを国家戦略に沿って打ち出し、発信していく「司令塔」の役割を担った。
この戦略を推進した中心人物の一人が、若き通産官僚だった堺屋太一氏だ。堺屋氏は万博のコンセプトについて、後に新聞への寄稿文の中でこう語っている。
「万博で大事なのはテーマよりもコンセプト(基本概念)、本当にどんな博覧会を作るかだ。前回の1970年万博のテーマは『人類の進歩と調和』だが、コンセプトは『大量生産社会日本』だった。こちらは会場全体で見事に表現された」(2016年11月7日付読売新聞朝刊)
「日本のステージが一つ上がった」
半世紀を経て2025年(令和7年)に開催された2025年大阪・関西万博に関わった人の目には、70年大阪万博はどう映ったのだろうか。
元経済産業事務次官で経済産業省顧問として大阪・関西万博担当を務めた多田明弘氏は、今も鮮烈に記憶しているという。
「幼稚園時代を万博会場近くの千里ニュータウンで過ごしました。その後、父親の転勤に伴いやむなく東京へ転居した後も、公式ガイドブックのパビリオンを一つひとつ画用紙に描き写しては『ここに行きたい』と父親にねだっていました。小学校2年生の夏に父と夢にまで見た万博に行った時は感無量でした。振り返ると、東京オリンピックと万博で、日本の世界の中でのステージが一つ上がった。日本人に大きな自信を与えた機会だったと思います」
リニア、EV…様々なテクノロジーと出会う
70年大阪万博では、半世紀後の今まさに社会実装が進みつつある技術が、お披露目されている。それも単なる「未来の構想」としてではなく、多くの来場者を前に実際に動かし、運用された。
国鉄は磁気浮上式鉄道すなわちリニアモーターカーの模型を展示し、世界を驚かせた。ダイハツが提供した電気自動車は、来場者用のタクシーや業務用車両として会場内を走り回った。日立グループ館では世界初のレーザーカラーテレビが公開され、次世代映像メディアの可能性を示した。いずれも半世紀後の社会実装を先取りしていた。
建築の面でも、16本の巨大なチューブを空気で膨らませた富士グループのパビリオン「エアドーム」は後のドーム球場建設にも影響を与えたと言われている。建築家・黒川紀章氏が設計した「タカラ・ビューティリオン」は、工場で生産された居住ユニットを中央のコアシャフトにボルトで取り付けるというもので、建築が生命体のように新陳代謝するという思想「メタボリズム」を形にしたものだった。
大阪公立大学特別教授の橋爪紳也氏は、「技術の社会実装には利用者側の心理的受容こそが重要です。様々なテクノロジーが予想外のカタチで生活文化に浸透するきっかけをつくったのが70年大阪万博だったかもしれません」と指摘する。
丹下VS岡本が生み出した緊張感とダイナミズム
70年大阪万博の空間は二人の天才のぶつかり合いによって創造されたとも言える。
建築家・丹下健三氏と芸術家・岡本太郎氏。会場全体のマスタープランナーを務めた丹下氏は万博会場を一つの合理的な「未来都市」として設計した。これに対して、テーマ展示プロデューサーの岡本氏はNOを突きつける。「調和なんて卑しい」「みんなで妥協する調和なんて」と公言。「太陽の塔」は、そんな岡本氏の思いからデザインされ、丹下氏もそれを受け入れ、自らが設計した大屋根を、物理的に突き抜ける形で設置された。
「太陽の塔」への来場者の反応を鮮明に記憶している建築家がいる。当時、菊竹清訓事務所でエキスポタワーの設計を担当していた伊東豊雄氏だ。
「来場者はみんな岡本太郎さんのところに行って、大屋根はあまり関心を持たれなかった。モダニズム建築が提示する未来より、根源的な生命力に訴える造形の方が国民の心を捉えたとも言えるでしょう」
丹下、岡本両氏の対立こそが、70年大阪万博に緊張感とダイナミズムを生み出したと言えるかもしれない。
「ハンパク運動」も過熱。反対の声も社会を反映
2025年大阪・関西万博にはコロナ禍の影響などから様々な反対の声があったことは記憶に新しい。70年大阪万博の当時も反万博運動(ハンパク運動)が過熱していた。
「夜になると全共闘の連中に呼び出されて『お前は国の仕事なんかやっていていいのか』と言われました。昼は万博の設計、夜は反対運動の仲間からの詰問という板挟みに耐えかねて、私は万博開幕直前に事務所を辞めました。1970年の大阪万博は社会、経済、文化の様々なものが切り替わる節目だったのでしょう」
伊東氏は当時の社会的な緊張についてこう振り返る。
「司令塔」から「黒子」へ。変わる政府の役割
「いのち輝く未来社会のデザイン」を掲げた2025年大阪・関西万博。その目的は日本の技術を誇示することではなく、日本を「未来社会の実験場」として開放し、世界中のパートナーと共に解決策を模索することだった。
70年大阪万博で通商産業省が「司令塔」だったのに対し、2025年大阪・関西万博で経済産業省は、自らの役割を「黒子」と位置づけた。その役割は多様なプレーヤーがイノベーションを創出するためのプラットフォームとルールの設計だ。
多田氏は、構想段階を振り返るとともに、万博がもたらす偶然の出会いについてこう語る。
「2025年大阪・関西万博は、『いのち輝く未来社会のデザイン』をテーマに、『未来社会の実験場』をコンセプトとして、世界全体のSDGs達成への貢献と同時に日本経済、特に地域経済活性化の起爆剤となることが期待されていましたが、もう一つ私自身、万博の魅力として確信していたことがあります。それは『セレンディピティー』(Serendipity:予想外の偶然から価値ある発見や幸運をもたらす能力や出来事)です。私自身は、偶然の賜(たまもの)とか、新境地につながる素敵な偶然の出会い、みたいな感じで使うことが多いのですが、会場で様々なセレンディピティーが生まれることに期待していました」
万博のすごさは、目当ての展示を見て帰ることだけに止まらない。
電力館で核融合ゲームを体験した人が、ITER(国際核融合エネルギー機構)のパビリオンに足を運んだ。ガスパビリオンを訪れたカタール政府関係者が、遮熱素材に高い関心を示した。
そして、参加を取りやめた「イラン館」のパビリオン建屋には、「輪島塗の地球儀」が展示された。この地球儀は輪島塗の職人が後継者育成プロジェクトとして制作したもの。能登半島地震で壊れたと思われていたが、奇跡的に無傷で残っていたものだ。
いずれも、事前に意図された出会いではない、まさに万博会場で生まれた「セレンディピティー」だ。
プラスビヨンド―「次の何かを生み出すための出発点に」
二つの万博はどんなレガシーを次の半世紀に残したのだろうか。
70年大阪万博は、万博記念公園、万博記念基金、太陽の塔など目に見える遺産を残し、さらなる新幹線建設、高速道路網の整備、地下鉄の延伸など都市インフラの構築につながっていった。2025年大阪・関西万博は、こうした物質的遺産というよりは、思想的なものをより多く残したのではないかと、この万博を見つめていた人々は指摘する。
橋爪氏は「プラスビヨンド」という言葉を使い、「万博で得たアイデアや経験を次の何かを生み出すための出発点にすべきだ」と語る。
「例えば、空飛ぶ車のデモフライトは、現時点では万博の成果とは言えません。しかし、それを見た子どもやエンジニアが次世代型の全く違う空飛ぶ車のアイデアを出し、世界市場を席巻するようになれば、それこそ万博の成果です」
「リングに上がれ」。万博の問いかけにどう応えるか
2025年大阪・関西万博では、ミャクミャクがコブラツイストを掛けられている博多人形が440万円で売れたことが話題となった。これを製作した人形師の中村弘峰氏は、ミャクミャクを博多人形の題材に取り上げるべきかどうか真剣に悩んだという。
70年大阪万博の反対運動を調べ、岡本太郎氏が外から批判するだけでなく「オレならこうやる」と対案を示し、丹下健三氏と激しくぶつかりながら、「太陽の塔」を実現する物語を知る。中村氏もクリエイターとして、外から批判するだけでなく、引き受けた上で自分の思いを表現すべきだと決断した。
「作品に込めたメッセージは『リングに上がれ』──世の中に対して意見があるなら、(プロレスの)リングに上がって言え、ということだったと伺いました。同時に、万博が閉幕してからは『それってリング(大屋根)に上がれってことだったんだと気づいた』とも、ご本人から伺いました。あの大屋根リングとミャクミャクの博多人形という、作者ですら当初は認識していなかったつながり。これまた万博が生んだセレンディピティーの一つかも知れません」と多田氏は語る。
当事者が語る「建築家」としての仕事の本質
万博を彩る、もう一つの大きな要素は多種多様な建築だ。70年大阪万博では「ソ連館」など個性的な建物群が会場を彩り、2025年大阪・関西万博でも、参加国の文化やメッセージをかたどった、47もの「タイプA」パビリオンが来場者を迎えた。
しかし、この半世紀の間に社会における建築のあり方は大きく変わったという。1970年と2025年の双方で万博建築に携わった伊東氏は語る。
「我々のようなアトリエ派と呼ばれる建築家からみると、日本の社会では建築の文化的価値が経済的価値に較べて評価されにくくなる状況が続いていると思います。70年以降はひたすら『自己主張が強く、社会に貢献していない』というような評価なのではないでしょうか」
建築家が思想を語る時代ではなくなり、デザインの目新しさだけを評価される傾向が強い。本来、社会のあり方を構想し、住民のために建築をつくる──そうした「建築家本来の役割」が、発揮されていないという危機感がにじむ。
この問題意識は、現代の万博のあり方にも向けられる。
「AIやプロジェクションマッピングなど情報技術の進化によって未来社会をデザインしようとしている。そうではなくて、モノとしての建築が持っている本来の力強さを表現できないだろうかということを強く感じて、シャインハットをデザインしました」
技術中心で語られる未来像に対し、伊東氏は「モノとしての建築」が持つ力を問い直そうとした。その思想は、「いのち輝く」という万博のテーマの捉え方にも重なる。
「『いのち輝く』というテーマに対して、本当は、情報ではなく、古代以来人間の身体と強く結ばれてきた建築の力がないと生きていけないのではないかということを表現したかったのです」
伊東氏は、残念ながら必ずしも当初の構想のとおりにはならなかったと語った上で、日本の未来について「人口減少も少子高齢化も確実に起こっています。そういう時代にふさわしい社会ということを考えなくてはいけません」と、社会への問いかけは続いていく。
国威発揚としての装置から、多様な未来を巡る対話の場へと、半世紀を経て変容した万博。万博が発した問いかけに一人ひとりがどう応えていくのか。世界、日本の未来が問われている。
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