伝統産業――品質保証、海外進出、人材育成…「本物」を守る闘いは続く

(※本記事は経済産業省が運営するウェブメディア「METI Journal オンライン」に2026年5月26日付で掲載された記事を、許可を得て掲載しています)

西陣織、輪島塗、南部鉄器、大島紬……。丁寧な手仕事により磨き上げられた工芸品は、明治以来、生糸などと共に、日本に外貨をもたらしてきた。ジャポニズムの熱気の中で、欧米の富裕層の間で収集の対象となった黎明期。「安かろう、悪かろう」の汚名を課された戦後。そして、「稼げる産業」へ。

それぞれの時代の要請に応じて、様々な政策が打ち出され、産地もこれに応えてきた。守るために、変わり続ける。伝統産業の昭和100年史とは――。

伝統産業の工芸品

ジャポニズムの風に乗る

1873年(明治6年)、ウィーン万国博覧会に日本は初めて公式参加した。

有田焼や薩摩焼の精緻(せいち)な絵付けや蒔絵(まきえ)を施した漆器は、欧米の来場者を驚かせた。日本の工芸品は「ジャポニズム」の風を巻き起こし、欧米の富裕層の間で収集の対象として人気を博していく。明治10年代に入ると、陶磁器の輸出は急速に伸びていき、有田、瀬戸、九谷といった産地は海外向けの意匠に取り組んだ。

ノリタケ(日本陶器)の創業者。森村市左衛門は1876年(明治9年)、弟を米国・ニューヨークに派遣し、陶磁器の直接販売に乗り出す。欧米の食卓にマッチした白磁のディナーセットを一から開発して販売。「海外市場の需要から逆算してモノをつくる」という発想を先駆けて実践した。

御木本幸吉は世界で初めて真珠の養殖に成功し、日本産真珠の存在感を国際的に高めた。一部の粗悪品が日本産真珠全体の評価を下げることを恐れ、品質基準に満たないものは大量に焼却処分してまで、日本産真珠の名声を守ろうとしたという。

泥染めと締機(しめばた)による精緻な文様で知られる大島紬も明治期、生産技術の向上によって生産量が急増した。一方で粗悪品が出回ることになり、価格が暴落。そこで組合が設立され、独自の商標「旗印」を貼り付け、粗悪品との差別化を図った。

御木本幸吉が真珠の養殖を始めた英虞湾。夕暮れ時の海に、いかだが並ぶ(読売新聞提供)
御木本幸吉が真珠の養殖を始めた英虞湾。夕暮れ時の海に、いかだが並ぶ(読売新聞提供)

戦時体制が大きな打撃に

しかし、日中戦争以降の戦時体制は、こうした伝統産業に壊滅的な打撃を与えた。

南部鉄器の鋳物師は兵器部品の生産へと動員され、西陣織の織機は軍需用の織布生産に転用された。漆の原料は軍用塗料に回され、陶磁器の窯は碍の子(がいし)の生産を優先するよう強いられた。

真珠の一大養殖地である三重県・英虞(あご)湾の養殖いかだは放棄された。職人は徴兵され、技術の継承は断ち切られた。

そして、敗戦――。全国の産地に残っていたのは、壊れた設備と断ち切られた海外との取引関係だけだった。

「安かろう、悪かろう」のレッテル

戦後、外貨を渇望する日本は、あらゆるものを輸出に回した。工芸品もその一つだった。ただ、品質管理体制は脆弱そのものだった。陶磁器は焼成が不十分なまま欧米に輸出され、すぐに割れると言われた。釉薬(ゆうやく)のムラやピンホールはクレームの原因となった。染色品は「洗濯やにわか雨で、すぐにはげる」と酷評された。

1956年(昭和31年)、衆院商工委員会の小委員会に参考人として出席した日本織物染色同業会会長の大西太郎兵衛氏は、当時の現状を率直に語っている。

「日本品が、安かろう、悪かろうでは、これは輸出対象になりませんので、極力品質の向上をはかり、需要家に満足できるものを安いコストで世界水準の価格に合わせて、輸出の振興を図ることに日夜努力をいたしております」

輸出検査法で「自家検査」から「強制検査」へ

多くの業者が品質の良いものを作っても、一部の業者が粗悪品を安値で輸出すれば、「日本製」全体の信用が損なわれる。そこで、国が動き出す。

1948年(昭和23年)に輸出品取締法がつくられたが、これは業者による「自家検査」を建前としてきた。しかし、それでも粗悪品の流出に歯止めがかからない。そこで国は「自家検査」方式を根本的に改める決断を下す。1957年(昭和32年)に施行された輸出検査法だ。

「現行制度は、輸出品の製造業者または輸出業者の自家表示を建前としており……このような検査制度では、粗悪品の輸出を完全に防止することは非常に困難であります」

1957年2月の参院商工委員会で、通商産業政務次官の長谷川四郎氏は輸出検査法案の提案理由について、こう説明した。

「自家検査」から「政府機関または指定検査機関による強制検査」への転換により、工芸品を含む輸出品は、検査に合格しない限り、船に載せることができない。輸出検査法によって、輸出品の品質管理は、国が責任を持って担うことになった。

産地に品質の底上げ迫る

強制検査の導入は、産地の現場を根底から揺さぶった。

例えば陶磁器の場合、それまで「親方の目」が判断していた品質が、通商産業省の定めた科学的な検査基準に置き換えられた。釉薬のムラ、ピンホール、強度など一つひとつ客観的な基準で合否を判定されることになったのだ。これは何とも言えない「味わい」が、「規格外」ととられる恐れがあることを意味した。

職人の反発は大きかった。しかし、検査をパスするには「長年の勘」頼みではなく、窯の温度管理や土の配合をデータ化し、標準化するほかない。この強制的な規格化が結果として、ノリタケやTOTOに代表される日本のセラミック産業が国際競争力を得ていく源流となった。

繊維染色でも、日光、摩擦、洗濯に対する耐性試験が義務づけられるなど、輸出検査法は全国の産地に品質の底上げを迫っていった。

ただ、輸出検査法は、あくまで品質の最低ライン守る法律にすぎない。1958年(昭和33年)の衆院商工委員会で通商産業省重工業局長の小出栄一氏は、輸出検査制度の狙いについて「粗悪品は海外に輸出しないという、いわば消極的な品質維持の手段というふうに考えられる」と述べている。

粗悪品を「止める」だけでなく、海外市場が何を求めているかを探り、産地に届け、より良い製品を作っていく必要がある。こうした問題意識が次なる政策へとつながっていく。

有田焼の工房では工程が細かく分かれ、それぞれの職人が自分の仕事をこなしていく。佐賀県有田町で(読売新聞提供)
有田焼の工房では工程が細かく分かれ、それぞれの職人が自分の仕事をこなしていく。佐賀県有田町で(読売新聞提供)

海外市場へ「攻め」の一手。JETRO発足

1958年(昭和33年)、日本貿易振興会法が制定された。日本貿易振興会(現日本貿易振興機構 JETRO)の役割は、世界各地に張り巡らせた在外事務所を通じて、海外市場の動向を調査し、国内の産地にフィードバックすることだ。何を、どんなデザインで、誰に向けて作るべきか。この問いにこたえる「情報のパイプライン」の役割をJETROは担った。輸出検査法が粗悪品を防ぐ「守り」の仕組みだとすれば、JETROは「攻め」の仕組みだと言えるだろう。

伝統産業の担い手は、ほぼ全てが中小零細の工房だ。JETROは「海外の目」を、産地に提供する公共財としての役割を担った。

真珠、西陣織…「海外の目」が技術、デザインを革新

JETROの調査とフィードバックが技術革新を加速させた分野が真珠だ。1962年(昭和37年)時点で生産額196億円の大半が輸出に回っていたが、量の拡大は再び品質の低下を招いていた。

JETROの在外事務所が持ち帰った情報は、欧米の宝飾市場が求めるテリ(光沢)の基準、巻き(真珠層の厚み)の水準、色味の好みを具体的に示していた。これらのニーズに応えるために養殖現場では水温・塩分濃度のデータ管理が進み、X線透過装置や光学測定器が導入される。御木本幸吉が個人の審美眼で守ろうとした品質を、科学的な管理手法で保っていく体制を整えていったのだ。「勘と経験」から「データとサイエンス」へ――。市場情報のフィードバックが品質管理の近代化を促した好例だ。

西陣織は、JETROを通じて海外デザインのトレンドが伝えられると、帯だけではなく高級服地、インテリア素材、ネクタイ生地としての可能性を模索した。

ただ、品質とデザインを向上させても、根源的な問題が伝統産業には横たわっている。それは、大量生産・大量消費の時代に、「本物の手仕事」をどう守り、どう稼ぐかということだった。

宮廷文化を中心に、織文化の担い手として発展してきた西陣織(伝統的工芸品産業振興協会・青山スクエアHPより)
宮廷文化を中心に、織文化の担い手として発展してきた西陣織(伝統的工芸品産業振興協会・青山スクエアHPより)

伝産法で、産業としての工芸品を守り、育てる

1974年(昭和49年)、伝統的工芸品産業振興法(伝産法)が施行された。

伝産法では、全国の工芸品の中から通商産業大臣(現経済産業大臣)が、「伝統的工芸品」に指定。指定品目となると、「伝統的工芸品」を名乗り、シンボルマークを使用することができる。その要件は、(1)日用品であること(2)主に手作りであること(3)伝統的な(100年以上)技術・技法であること(4)伝統的に使用されてきた原材料であること(5)一定の地域で産地形成がなされていること――の五つ。1975年2月に指定された南部鉄器(岩手)、村山大島紬(東京)、久米島紬(沖縄)など11品を皮切りに、2025年(令和7年)10月末現在で47都道府県の244品目が指定されている。

日常品であることと、産業として成立していることの二つが重視されており、管轄が文部省(現文部科学省)ではなく、通商産業省(現経済産業省)だったことも、伝統的工芸品を「文化」としてではなく、「産業」として捉え、守り育てていくという伝産法の性格を端的に示している。

注目すべきは、政府提出法案ではなく自民党から共産党まで含む、超党派の議員立法だったことだ。高度経済成長による大量消費・使い捨ての文化と暮らしの洋風化に対する危機感は、政党を超えて共有されていたことが分かる。

「本物」の価値守る伝産マーク、伝統工芸士

伝産法の柱の一つが、伝統マークだ。

伝統的工芸品は、産地の組合で検査し、伝統的な技術、技法、原材料で作られた製品であることが認められると、伝統マークをデザインした「伝統証紙」を製品に貼付することが許され、消費者にその品質を証明することができる。大島紬は明治末期から、組合の検査を経た独自の商標「旗印」で粗悪品と差別化を図った。伝統マークは、こうした産地自治の精神を全国規模に拡張したものだと言える。

もう一つの柱が「伝統工芸士」の認定制度だ。

高度経済成長以降、手仕事でのものづくりを担う「職人」の社会的地位は低下する傾向にあった。「子どもには継がせない」という声が産地から聞こえてくる中で、1975年(昭和50年)に制度はスタート。初年度だけで203人が認定され、1982年(昭和57年)からは叙勲の対象になり、年間42人の枠が設けられた。

メディアで「伝統工芸士の○○さん」と紹介されることで、職人の仕事に対する社会的な見方が少しずつ好転。後継者問題の対策にもつながった。

輪島塗職人で伝統工芸士の引持松雄氏は、こう語る。

「京都御所の仕事が入ったとき、京都の家具屋さんから下請けの話が来ました。その場で『僕も伝統工芸士ですからやりますよ』と言えた。肘掛けや座椅子など全部塗りましたが、そういう時に『伝統工芸士だ』と言えるのは、やっぱり大きい」「弟子を持つなら取っておいたほうがいい。胸を張って『伝統工芸士です』と言える」

伝産法は「本物」を法律で定義し、伝統マークで可視化、伝統工芸士制度で職人の社会的地位を引き上げ、補助金で産地を支えるという包括的枠組みを提供した。

伝統的な技術、技法、原材料で作られた製品であるということを、消費者に対して証明する「伝統証紙」 には、伝統マークがデザインされる。

伝統的な技術、技法、原材料で作られた製品であるということを、消費者に対して証明する「伝統証紙」 には、伝統マークがデザインされている(伝統的工芸品産業振興協会・青山スクエアHPより)
伝統的な技術、技法、原材料で作られた製品であるということを、消費者に対して証明する「伝統証紙」 には、伝統マークがデザインされている(伝統的工芸品産業振興協会・青山スクエアHPより)

新たな時代に新たな挑戦を続けるために

この100年、日本の伝統産業は様々な課題に直面。その時々の課題に対応して、輸出検査法、日本貿易振興会法、伝産法がつくられた。個々の企業の努力では守れない「国全体の信用」を制度として支える――これが三つの法律に通底する考え方だ。

このうち、輸出検査法が1997年(平成9年)に廃止されたことは、日本の品質文化の成熟を物語っている。

そして今、伝統産業を取り巻く環境は変わりつつある。訪日外国人が産地を訪ね、職人の手仕事に見入る光景は珍しくなくなった。大量生産・大量消費への反省から、長く使える「本物」を求める消費者が増え、工芸品とカジュアルに出会える接点も生まれてきた。益子焼や江戸切子のように、若い職人が次々と誕生している産地もある。

輪島塗が「ポケモン」とコラボレーションし、そのキャラクターを蒔絵で入れて販売を伸ばすなど、新しいデザイン、新しい商品への挑戦も、各地で始まっている。

伝統産業を再び成長産業へと転換させることができるか――。「品質をどう守り、市場にどう届け、本物をどう定義するか」という、かつての政策立案者が直面した課題は、形を変えながら、私たちが伝統産業とどう向き合っていくべきか、問い続けている。

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