宇宙産業 ── 科学技術政策から産業政策へ!その軌跡とは

(※本記事は経済産業省が運営するウェブメディア「METI Journal オンライン」に2026年5月22日付で掲載された記事を、許可を得て掲載しています)

天気予報で流れる衛星画像、BS放送、カーナビゲーション……私たちの日常に溶け込んだこれらのサービスは、すべて人工衛星という宇宙技術の産物だ。戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって航空機の研究・開発すら禁じられた日本が、自主開発したロケットで、人工衛星を宇宙に送り出すまでの道のりは決して平坦ではなかった。

今、宇宙産業はこれからの日本をリードしていく一大産業になり得る存在として、熱い注目を集めている。ロケット開発を中心に、日本の宇宙産業のたどった道のりを振り返るとともに、宇宙ビジネスの可能性を探った。

学術研究としてスタート

戦後日本のロケット研究・開発は、軍事技術として位置づけられていた欧米とは対照的に、大学の学術研究から始まった。このことが、(1)「平和利用」原則 (2)大学研究と国家事業の二元体制 (3)米国からの技術導入と段階的国産化──という日本の宇宙開発の方向性を決定づけることになる。

所管したのは科学技術庁。1960年(昭和35年)の参院内閣委員会で、日本が人工衛星打ち上げ能力を持てる時期について質問された当時の中曽根康弘・科学技術庁長官は、こう答弁している。

「人工衛星は、日本で球体を作りまして、打ち上げは米国のロケット等を使って打ち上げてもらって、日米協力でいくのが今のところ妥当な線であるように思います」

衛星は日本で作り、打ち上げは米国に頼る。当時は、自主開発路線を取るには、資金、人材、技術などすべてが不十分な状況だった。

NASDA発足。「平和の目的に限り」と明記

一方、平和利用の原則は、宇宙開発に関する議論の積み重ねの中で確立されていく。

「宇宙開発におきましても平和利用である、これは間違いない。そういう観点に立ちまして、いろいろ今基礎的な研究を続けさせております」

1964年(昭和39年)5月の衆院科学技術振興対策特別委員会で、当時の佐藤栄作科学技術庁長官はこう強調した。

同じ委員会で、長官経験者の中曽根康弘氏は、東京オリンピックのテレビ中継を通信衛星経由で米国に送ることについて、「この放送ができるということは、東京でオリンピックが行われるという以上に大きな意義を日本にとって持つと思う」と、語っている。

軍事利用の可能性を持つロケット技術を、あえて民生用・科学用に限定する。そして、オリンピック中継で、その実用的価値を国民に示したい。中曽根氏の発言にはその思いが強くにじんでいる。

1969年(昭和44年)10月、「宇宙開発事業団(NASDA)」が発足し、1971年度に電離層観測衛星、1973年度に実験用衛星を打ち上げる計画を打ち出した。宇宙開発事業団法第1条には、宇宙開発は「平和の目的に限り」行うことが明記され、国会決議でも平和利用原則が確認された。

アポロ11号の宇宙飛行士が人類で初めて月に降り立った
アポロ11号の宇宙飛行士が人類で初めて月に降り立った

ISAS発足。科学衛星の開発担う

一方で、東京大学を拠点とした学術系の宇宙科学研究は、NASDAと別の歩みを続けた。

科学衛星は「東京大学宇宙航空研究所(ISAS)」が担当し、実用衛星はNASDAが担うという二元体制が敷かれたのだ。NASDAへの統合も検討されたが、元科学技術庁長官の木内四郎氏らは反対。その理由について、こう振り返っている。

「科学衛星を東大のほうで研究している際に、その努力がある程度まで来ているのに、それをやめてこちらに全部移す、こういうことでは私はよくないと思った」

この二元体制は2003年(平成15年)に「宇宙航空研究開発機構(JAXA)」に統合されるまで34年間続くことになる。

「ペンシルロケット」から悲願の「衛星打ち上げ国」へ

ISASでの研究を主導したのは、日本におけるロケット研究のパイオニアと言われる東京大学教授の糸川英夫氏だった。糸川氏は戦時中、中島飛行機で「隼」戦闘機の空力設計に携わった航空技術者。戦後、GHQが航空機の研究から製作までの一切を禁止すると、医療機器や音響工学の分野に転じていた。

日本におけるロケット研究のパイオニア糸川英夫氏(JAXA提供)
日本におけるロケット研究のパイオニア糸川英夫氏(JAXA提供)

「今から航空の研究を再開しても追いつけない。ならばその次を目指してロケットに着手しよう」

糸川氏は戦後、ロケット研究に踏み出した心境をこう振り返っている。

糸川氏のロケット研究は富士精密工業(現IHIエアロスペース)の支援の下、1954年(昭和29年)に年間560万円の予算でスタートした。「ペンシルロケット」との愛称で呼ばれた超小型の火薬式ロケットを開発し、国分寺の発射場から150機あまりを打ち上げ、貴重なデータを集めた。

その後、「ベビー」「カッパ」とロケットは大型化。1962年(昭和37年)には、鹿児島県肝付町に内之浦宇宙空間観測所が開所、秋田県能代市にはロケット燃焼実験場が開設され、1966年(昭和41年)には衛星打ち上げ用のラムダ4S型ロケットの飛行試験が始まった。

しかし、1~4号機はことごとく失敗。東京大学教授の玉木章夫氏が、国民に向けて謝罪する事態に追い込まれた。

そんな中で迎えた1970年(昭和45年)2月11日。ラムダ4S-5号機が、日本初の人工衛星「おおすみ」の軌道投入に成功。日本はソ連、米国、フランスに次いで、世界で4番目の衛星打ち上げ国となった。

実用衛星開発で、米国に技術援助求める

実用衛星の打ち上げには、更に時間を要した。おおすみは固体燃料ロケット技術を活用して打ち上げられたが、より大型の実用衛星を打ち上げるには、米国が持っている液体燃料ロケットの技術が必要となる。NASDAは、米国の技術を導入しながら、段階的に国産化率を高める戦略をとった。

1969年(昭和44年)、日米間で宇宙開発協力に関する交換公文が取り交わされ、米国の「ソー・デルタロケット」水準までの技術援助が受けられることになった。一方で、「再突入技術」は除外された。

N-I、N-IIロケットが開発され、ロケット、気象衛星、通信衛星いずれも国産化率は向上していった。しかし、それでも30~50%は輸入品という状況が続き、ロケット技術における自立の道は、なお遠かった。

初めて日本が全段自主技術により開発したH-Ⅱロケット(JAXA提供)
初めて日本が全段自主技術により開発したH-IIロケット(JAXA提供)

純国産目指し、二段燃焼サイクルエンジン開発へ

1981年(昭和56年)H-Iロケットの開発がスタートした。1段はN-IIのものが流用されたが、2段推進系と2段エンジン、3段個体モーター、慣性誘導装置については、三菱重工業、石川島播磨重工業(現IHI)、日本電気、日本航空電子工業などが参画して、国内で自主開発された。H-Iロケットは1986年(昭和61年)に初飛行し、9号機まで連続して打ち上げに成功した。

そして1985年(昭和60年)、全段自主技術によるH-IIロケットの開発がスタートした。

最大の難関は1段エンジンの「LE-7」の開発だった。LE-7は、液体水素・液体酸素を推進剤とする二段燃焼サイクルエンジンと言われるもの。当時、自主開発は困難とみられていた。

ついに世界水準に!H-IIロケット宇宙へ

IHIのロケット開発事業推進部長は、当時の空気をこう証言する。

「二段燃焼サイクルをやると言った時、米国の液体燃料ロケットエンジンの設計製造業者の人たちは鼻で笑ったと聞いています。『ライセンス生産していた人たちに、この難易度の高いサイクルのエンジンが開発にできるわけがない』と。アポロ計画で膨大な基礎データを積み上げてきた米国に対して、日本の予算は桁違いに小さかった。にも関わらず、私たちの諸先輩方は大変な開発の苦労を乗り越えてH-IIロケット用国産エンジンLE-7を見事に完成させたのです」

1994年(平成6年)2月4日、H-IIロケットの1号機は計画通り飛行に成功する。米国の技術導入から20年、日本のロケット技術が世界水準に達した瞬間だった。

蓄積された産業基盤。国民の暮らしも大きく変える

2008年(平成20年)、宇宙基本法制定以後、宇宙開発は産業政策として本格的に位置づけられることになる。科学技術庁を主体に、科学技術政策としてスタートした宇宙開発は、結果的には産業基盤を強固に構築した。

三菱重工業、石川島播磨重工業(現IHI)といった大企業だけでなく、多くの中小企業がサプライヤーとしてプロジェクトに参画。IHIで宇宙開発事業を推進してきた小口英男氏は振り返る。

「様々なサプライヤーの協力が必要でしたが、説得は大変でした。ただ、『この仕事はH-IIというロケットを純国産化するための仕事なんです』と話すと、『じゃあ、一肌脱ぐよ』と前向きに応じてくれました。『純国産』が口説き文句でした」

そして、一連の宇宙開発プロジェクトは国民の暮らしも大きく変えた。気象衛星「ひまわり」は天気予報の精度を飛躍的に向上させ、宇宙開発が日常生活のインフラに関わる事業であることを、国民に実感させた。また、放送衛星「ゆり」は離島や山間部のテレビ難視聴を解消。通信衛星「さくら」は災害時の情報伝達を支えている。

「実証」から「社会実装・産業化」の段階へ

こうした文部科学省やJAXAを中心とした研究開発の取り組みと並行して、通商産業省・経済産業省は宇宙技術を民間ビジネスとして成立させるための産業化政策を進めた。

実用化を前提とした高分解能の地球観測や資源探査・環境計測に活用できる高度なセンシング技術の実証実験は、宇宙空間で得られるデータを産業や社会課題の解決につなげる道筋を示してきた。また、▽ユーザー参加型の実証実験を通じた需要の掘り起こし▽官民連携での次世代ロケット開発▽海外政府との再突入型人工衛星に関する共同宇宙プロジェクトの実施▽無人の自律帰還型回収システムの実用化▽宇宙太陽光発電(SSPS)の実現に向けた技術開発支援──など、コスト低減を視野に入れた技術開発や宇宙技術の他分野への活用を推進する取り組みのほか、日本初の先進的な開発やプロジェクトも複数進めてきた。

一連の政策は、宇宙利用を「実証」の段階から「社会実装・産業化」の段階へと押し上げ、日本の宇宙産業の裾野を広げる役割を果たしてきた。

昭和から令和へつながるバトン

戦後スタートしたロケットを中心とした宇宙開発は、令和の時代に入り宇宙ビジネスとして、新たなプレーヤーへとバトンをつないでいる。福島県南相馬市でRockoon(気球空中発射)方式の小型ロケット開発を手がけている「AstroX」もその一つ。IT起業家から転身した代表取締役CEOの小田翔武氏は日本の宇宙産業のポテンシャルについて、こう強調する。

「現在、ロケットを自国だけで作れる国は世界でも10か国程度しかありません。この技術的な基盤は、昭和期の重工業や自動車産業の発展と切り離せないものだと改めて感じています」

福島県南相馬市でRockoon方式の小型ロケット開発を手がける「AstroX」代表取締役CEOの小田翔武氏
福島県南相馬市でRockoon方式の小型ロケット開発を手がける「AstroX」代表取締役CEOの小田翔武氏

AstroXが拠点としている南相馬市には、東日本大震災後、「福島イノベーション・コースト構想」の下、宇宙産業をはじめ先端産業の集積が進んでいる。

「津波で大きな被害を受けた南相馬市が復興し、そこから世界につながる一大産業が生まれれば、人類にとって希望になるはずです。私たちはチャレンジを続けます」と小田氏は語る。

宇宙産業の世界で、昭和という時代が残したものは技術や制度だけではない。宇宙という未踏の領域に挑み続ける姿勢こそが、最も大きな遺産だったのではないのか。その遺産は確実に次の世代に受け継がれつつある。

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