AI時代の知識創造 「非合理性を伴う知」が問われる
AIの活用により、人間の認知能力の飛躍的な拡大、拡張が実現されつつある。開発を進める中で明らかになってきたのは、AIに「常識」を身に着けさせることの難しさ。人間でなければできない、複雑な社会に根差した判断について、古典を振り返り考える。
2011年、アメリカの人気クイズ番組「Jeopardy!」でIBM社のWatsonが2人のチャンピオンに勝利したのを皮切りに、人工知能(Artificial Intelligence、AI)がますます人間の日常生活、労働の現場に入ってきている。今日、単純労働の分野ではAIによる人間労働の代替が進むと予測され、企業には「人間との共存」、「人間とAI」とが連携する新しい業務のあり方の模索が求められている1)。遅かれ早かれ、AIは日常生活でごく普通の存在になるだろう。複雑な計算をもはや筆算で行う人はいなく、電卓やアプリを使うように、人々の生活にAIは自然と溶け込んでいくだろう。
AIによる人間の支援は、下図のような4段階で進化すると考えられている。こうした段階を経て、AIにより人間能力の拡張が実現しつつある。肉体的限界、情報伝達の限界、生産性の限界を超えて、今や人間は複雑性の限界を越えようとしているとも言われている。AIによる人間の認知能力の飛躍的な拡大、拡張が実現されつつある。
AIによる人間の支援
AIに欠如している常識
しかしこのような一連の支援活動においてAIにおいて決定的に欠如しているのは常識である。機械の脳は、人間が経験を通じて獲得した膨大な「常識」を持たないと言われている。人間が生物進化の長い歴史の中で獲得した「常識」がAIにはないのである。そのことが文意の理解や状況の把握のハンデとなる。
常識は実践に基づく暗黙知に基づいている。そして我々が現実世界で下す判断や行動の多くは、そうした「常識」に依拠している。それでは、そもそも常識とは何なのだろうか。この問題を古典に立ち返って検討してみよう。
福澤諭吉によれば、常識とは、智と徳の2要素を備えたものでないといけない。福澤諭吉は『文明論之概略』の中で、「文明の進歩は世人一般の知徳の発生に関するものなり」と記し、智(Intellect)と徳(Moral)が文明の進歩を支える両輪であると考えた。
しかも福澤によれば、知と徳はそれぞれ私と公の二局面で追求されないといけないという。そして福沢諭吉が最も重視したのは、公的な智だった。それは決して徳を福沢諭吉が軽視していたというわけでない。彼が公的な智を重視したのは、日本では社会問題を道徳の問題として解釈する傾向が強いことを危惧していたからである。
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