都市計画の父 後藤新平
1923年の関東大震災後、今後大きな被害を出さない都市をつくると宣言し、8億円の経費を必要とする「帝都復興計画」を構想した後藤新平。現在の東京の骨格を作った復興プランは、市民の安全を第一に考えたものだった。
人間中心の震災復興都市
後藤新平の都市についての事業構想は、人間中心である。およそ構想は、「生物学の法則に拠らなければならない」と主張する。後藤新平は医者だったから、都市経営に限らず、政治や植民地経営においても生物学の法則を強調する。
後藤新平が東京市長になってつくった「東京市政要綱」は、道路、ごみ処理、社会事業施設、教育、上下水、住宅、電気・ガス、港湾、河川、公園、葬祭場、市場、公会堂など、都市における人間生活に関わる事柄全般をていねいに取り上げた堅実な計画だ。
当時、東京市の予算が約1億3千万円であったのにこの市政要綱の必要経費が8億円を要したため、「後藤新平の大風呂敷」と揶揄された。
この8億円プランは、わずか2年間の東京市長在任中には実現しなかった。
そして大正12年(1923)9月1日、後藤新平は山本権兵衛内閣で外務大臣に就任するはずだった。そこに関東大震災が発生した。後藤は困難な復興を担う内務大臣を引き受けた。そして「遷都はしない。復興費用は30億円。欧米でも最新の都市計画を採用する。地主に対しては断固たる態度で臨む」と決めた。
早速、閣議に「帝都復興の議」を提案した。「地震は何度もくる。今後、大きな被害を出さないため、公園と道路をつくる」と宣言し、帝都復興計画を作成した。
この構想は東京市長時代の東京市政要綱を下敷きとして人間生活中心の都市論が貫かれ、近代的な生活を目指した不燃建築の同潤会アパート、吾妻橋、駒形橋、言問橋、厩橋など、隅田川を橋の博物館とした鉄製の名橋、日本初の海辺公園と言うべき横浜の山下公園、日本初の川辺公園となった東京の隅田公園など多くの公園、市民が集い議論する日比谷公会堂など、人間中心の各種都市施設が震災復興でつくられた。
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