約800頭を育てる牧場へ 北海道で築いた羊ビジネスの新たな可能性
(※本記事は日本政策金融公庫が発行する広報誌「日本公庫つなぐ」の第37号<2026年4月発行>で掲載された記事を、許可を得て掲載しています)
北海道釧路市の中心部から西へ車で約40分。人口約7千人、農林水産業が盛んな白糠町の郊外に、日本の羊業界をリードし続けてきた有限会社茶路めん羊牧場がある。代表取締役の武藤浩史氏は京都出身。縁もゆかりもなかったこの町に移住し、羊を飼い始めて間もなく40年になる。今では約800頭の羊を飼育し、当地の羊業界をけん引する重鎮の1人であるが、「羊とは運命の出会いみたいなものでした」とほほ笑む語り口は穏やかだ。
憧れを胸に北海道へ 大学院で羊に出会う
1958年、京都に生まれ育ったという武藤氏。「北海道への漠然とした憧れ」を胸に実家から遠く離れた帯広畜産大学に進学したが、移住や就農に確固たる決意を持っていたわけではなかったという。北海道での学生生活を満喫しながら、3年次で選んだ研究室は家畜増殖学教室(繁殖分野)だった。ここで、本場オーストラリアで羊の繁殖で学位を取った恩師と出会い、これが羊と関わるきっかけとなり、大学院に進学した。
戦後の復興期、肉と毛が得られる羊の需要は旺盛で、1950年代後半には全国で94万頭近くが飼われていた。しかしその後、羊肉、羊毛とも輸入が自由化されたことから競争力を一気に失い、1970年代半ばまでに飼育頭数は1万頭にまで激減した。羊王国だった北海道も例外ではなく、ご当地料理のジンギスカンも輸入肉に切り替わっていた。帯広畜産大学でも当時、研究対象は牛が中心で、「羊は本当にちょこっと実験動物で飼われているぐらいでした」。
所属した研究室では羊の飼育管理を任された。「下働きといいますか、毎日餌をやるなど世話をしているうちに、この動物は何なのだろうと興味を持ち始めました」。数少ない羊牧場を探して訪ねるなどして認識を深めるうち、羊に魅了されていく。学生仲間と一緒にサークル「シープクラブ」を作り、羊に親しみ、楽しむ活動にも取り組んだ。
カナダで農業実習 偶然の出会いから白糠町へ
「いつしか何らかの形で羊に関わる仕事に就きたいと思うようになりました」と話す武藤氏。ところが就職先を探す段になって壁に当たる。「なかったですね。観光牧場の仕事もほとんどなかった。勤めるという選択は、その時点では難しいということが分かりました」
「それなら海外を見てみよう」と武藤氏はカナダに渡り、農業実習という形で現地の牧場で約1年働いた。「カナダは羊がメジャーな国ではありませんが、お世話になった羊の農家が、当時まだ日本では珍しかったアグリビジネスに取り組んでいて、日本でもできるのではないか、という気持ちになりました」
1985年に帰国し、帯広市でヤギや羊を実験動物として飼育する医薬品会社に就職した武藤氏。ここでも偶然の出会いによって運命の歯車が回り始める。
ある時、大学の後輩のつてで、白糠町で羊を飼い、羊毛を紡いで作品作りをしている女性がいることを知り、訪ねていったという。「いずれは自分でも羊の飼育をやりたいということを話しました。そうしたら白糠町に空いている土地があって、新しい人に将来的には譲ってもいいという離農者の方がいるというのです」
当時はバブル景気の時代。さらに女性の人脈で、とある経営者から東京でラム肉料理専門のレストランを開きたいという事業の話が寄せられ、その会社が白糠町に羊の生産牧場を開くことになった。「やってみないかとお話を頂いて、ぜひやりたいですと答えました」。1987年、武藤氏は白糠町へ移住し、同年秋、牧場は35頭の羊からスタートした。「24時間対応しなきゃならないので畜舎の一角に住んでいました。特に分娩なんていつ起こるか分かりません」
飼育は順調だったが、試練はすぐにやってきた。事業の雲行きは「1年ぐらいで怪しくなりました」。レストランの開業は取りやめとなり、「牧場はどうしますかと言われました」。設備などの資金はレストラン側が出しており、「やめると言えばそれで終わりでした。ただ、やめればまた一から始めなくちゃいけない。それで、羊と設備を買い取るって言ったんです」。
その後はアルバイトで生活費や事業資金を補填し、後輩にも手伝ってもらいながら牧場経営を続けた。
農地取得し法人化、事業拡大へ
「当時、酪農はまだ規模拡大、どんどん大型化していこうという時代でしたから、農地がそんなに余っていませんでした。移住者をよそ者扱いしない北海道とはいえ、どのようにすればその土地に受け入れられるか、色々と模索しました」
考えの末、武藤氏は当初借地であった牧場の土地を取得する意志を固めた。白糠町に根付くという強い覚悟を持っての決断だった。そんな時、北海道農業会議の担当者に紹介されたのが農林漁業金融公庫(現・日本公庫)だった。武藤氏は約300キロメートル離れた札幌市にある同公庫の支店まで行って、融資を受けた。
羊の頭数も徐々に増やし、軌道に乗り始めた2006年には、大学の後輩で、学生の頃から牧場で実習をして、羊飼いになる決意を固めた鎌田周平氏と共同経営の形をとり、有限会社茶路めん羊牧場として農業法人経営を開始した。飼育規模はすでに現在の3分の2ぐらいまで大きくなっていたが、「生産性の高い品種の羊を新たに輸入するなどして事業を拡大しました」。地元金融機関の後押しもあり、事業拡大が進んでいった。
移住者から定住者に 白糠町は愛する自分の町に
「偶然の出会いで白糠に来たわけですが、10年ぐらいたった時に、ふと周りの風景を見て、ここはいい所だなと思ったんです。それは単に風景がいいというだけではなく、羊たちも周囲の環境になじんできて、生活上もよそ者ではなくなってくるわけですね。今ももちろんいい所だと思っています」
時代は変わり、現在では移住者を取り巻く状況は一変した。道内でも一部の市町村を除き、人口減少に歯止めがかからない。
「ともかく来てくれるだけでありがたい。酪農家も離農する方が多く、白糠町でも130軒ぐらいあったのが半数以下に減ってしまった。本当に1人でも来てほしい。移住政策はうちの町も、あの手この手でやっています」。武藤氏の下で学び、白糠町で新たに羊牧場を開いた若者もいる。「3年ぐらいうちで働いて、外部で2年ぐらい研修して2025年、就農しました」。「うちの町」と自然に口にした武藤氏。縁もゆかりもなかった土地はいつしか愛する自分の町になり、新たな移住者へとつながっていた。
羊を無駄なく活用 羊肉・羊毛の加工販売、レストラン経営も
現在、約800頭の羊を飼育している茶路めん羊牧場は、繁殖、飼育から加工、販売までを一貫して行っている。カナダで知ったアグリビジネスの手法だが、羊1頭無駄なく丸ごと活用するという想いも当初からのものだ。「羊に一番効率良く働いてもらう、生産物を供給してもらうという考えでいけば、おのずと捨てるところがないという方向になります。いろいろ学んだ中で、羊を無駄なく活用するというのがやっぱり羊の王道ではないかという気持ちがありました」と武藤氏は言う。
1990年には早くも食肉処理業の許可を取り、内臓肉も含めた羊肉のパーツ売りや個人への販売も始めた。「最初のうちは、内臓肉はあまり多くは売れませんでしたが、今は定着し、足りないくらいです。出荷はほぼ直販です」。羊毛も原毛販売の他、自社ブランドの製品にも加工して販売している。
羊肉のおいしさを知ってほしいと牧場近くでファームレストラン「クオーレ」を営むが、その開業も偶然の出会いがきっかけだった。取引先のイタリアンレストランに食事に行ったところ、うちで修行している料理人に白糠町出身者がいると紹介され、声を掛けた。開業までの約1年の準備期間は羊の飼育や羊肉の解体作業に携わるなど、羊のことを一から学んでもらった。「羊の全てを学んだシェフです。すごく努力をしてくれました」と全幅の信頼を置く。
自分ならではのやり方で羊を連綿と続く産業に
羊肉の総供給量に占める国産羊肉のシェアは現在も1%以下とマイナーな家畜だが、不思議と羊の飼育をやりたいという人は絶えず、武藤氏のところにも訪ねて来るという。「私の牧場を見習ったらいいかというとそうじゃなく、自分ならこうするっていう考えを持つことが必要です。羊牧場は一律じゃないというのも面白さだと思います」。日本では羊の飼育管理技術を継続的に支える仕組みが十分に整っていないなど、羊業界の拡大には課題も山積すると武藤氏は考えているが、武藤氏は規模拡大だけが進む道だとは思っていない。
「羊は牛飼いが経営不利地として手放した遊休農地での飼育も可能です。大規模な専業経営だけでなく、農家民宿や観光施設、体験牧場との兼業や、自家菜園の延長としての飼育の可能性もあり、今後も連綿と続いていってくれることを願っています」
武藤氏が牧場に入ると、羊たちがその後をぞろぞろと付いていく。主人だと認識しているのかと思ったが、羊は群れで動く習性があるという。
「羊に取り込まれたというか。良かったのか悪かったのか。どうも気まぐれな彼らにだまされたかもしれないですね」
優しい笑顔で羊を見つめる武藤氏の表情が全てを語っていた。
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