農林業を、どうインキュベーションするか?産学官連携施設「inadani sees」の実践

inadani sees マネージャーの奥田さんと、運営メンバーの大野木さん、黒岩さん、塚田さん

農と森のインキュベーション施設として2023年5月にオープンした、長野県伊那市の産学官連携拠点施設「inadani sees」。

施設に訪れたくなるようなコンテンツづくりと、プレーヤー同士のコミュニケーションが生まれる仕組みづくりを日々考えている彼らの実践は、じつに多彩だ。

イベントやカンファレンスのみならず、inadani seesが発行するマガジン「sees magazine」が発行されると聞き、伊那市から施設の運営と、企画やコンセプト設計を委託している株式会社やまとわの取締役で inadani sees マネージャーの奥田悠史さんと、運営メンバーの大野木雪乃さん、黒岩麻衣さん、塚田里菜さんに話を聞いた。

企てをカタチに変えていく場所「inadani sees」

「inadani sees」外観

長野県南部にある長野県伊那市。西を中央アルプス、東を南アルプスに囲まれた盆地の中央には天竜川が流れる。県内では松本市、長野市に次いで面積が広く、標高590m~3,052mと標高差があるのが特徴だ。伊那市には信州大学農学部の伊那キャンパスがあり、そのすぐ近くに農林業のインキュベーション施設「inadani sees」がある。

奥田さん「行政や大学関係者だけが出入りする場所ではなく、もっと広く農林業に関わる人、これから関わりたいと思っている人も訪れやすい雰囲気が出るように、『企てをカタチに』というコンセプトコピーと、農と森のインキュベーション施設『inadani sees』という名前をつけました。名前って重要だと思うんです。僕らが最初に与えることのできるものだし、誰から愛されるんだろうと考えたときに、キャラクターを位置づける意味合いで、愛称をつけたいと市に提案しました。」

複数の候補の中から、市民投票で決まったのが「inadani sees」だ。「inadani」も「sees」も前後どちらからも読めるという特徴があり、前から読む と「伊那谷が見える」、逆から読むと「伊那谷を見る」。 伊那谷を見つめ、伊那谷から世界を見つめていく視点が込められている。

また、「sees」には、見る、出会う、想像するといった意味と、音としての「シーズ(種)」の意味があることから、考えている人の頭の中にある「企て」の種を、見えるカタチに変えていく場所にしていきたいと考えた。

奥田さん「企てるというのは、つま先を立てて遠くを見るという語源にあって、つま先立ちぐらいっていうのが等身大でいいなと。また、キービジュアルはデイダラボッチをモチーフにしました。自然はやさしいだけでなく、ときに脅威にもなる。そして、僕たちは森のそばで暮らしているのに、森が全然見えていない。こちらが見えている時は、あちらも見えているって言われるじゃないですか。森が見えていれば、向こうからもこちらが見えているという関係性、緊張感も大事ということもあって『sees』なんです。」

集まり、語らう、さまざまな人との接点をつくる

写真左から大野木雪乃さん、黒岩麻衣さん、奥田悠史さん、塚田里菜さん
写真左から大野木雪乃さん、黒岩麻衣さん、奥田悠史さん、塚田里菜さん

「inadani sees」は、これまでにさまざまな主催イベントや共催イベントを開催してきた。数えてみると、主催イベントだけでも、この2年で30回。共催イベントが3回。後援や協力のイベントが14回(2025年03月時点)。

「sees」という名前がつくイベントは、焚き火の周りに集まり語らう交流会「TAKIBI SEES」、普段はしない話を本気で話すトークライブ「NOROSEES」、「それぞれの“視点”を交換する」をキーワードに農や森のプロと別のフィールドで活躍するプロが出会う機会をつくる「SEES CAMP」、そして自然と生きる視点を共有する「SEES SCHOOL」の4つだ。

「inadani sees」4つの企画のロゴ

奥田さん「イノベーションやビジネスが生まれるために、何があるといいんだろうと考えて。入口となる多様なイベントがあって、学びの場があって、コミュニティがかたちづくられて、それがうまく混ざったら、小さい何かが生まれる。そんなイメージをしました。」

黒岩さん「私は『SEES CAMP』を担当しました。初回は、森と建築というテーマでした。業務で木材を扱っている都市部の建築士さんに来ていただいたのですが、材を“数字上”でやり取りしているから、案外、森のことを知らないんですと言っていて。実際に木材を見て、生産現場にいる人の話を聞いてからは、国産材は決して高くないと思うようになったと言ってくれました。現場を見て対話を重ねたり、それぞれの大事にしていることがわかるって大事だなと感じました。」

「SEES CAMP 2023〈森と建築〉」より。木造建築・家具設計に携わる方々と一緒に伊那谷の森と、森にまつわるモノづくりの現場を巡り、意見交換の中でイノベーションの種を探した
「SEES CAMP 2023〈森と建築〉」より。木造建築・家具設計に携わる方々と一緒に伊那谷の森と、森にまつわるモノづくりの現場を巡り、意見交換の中でイノベーションの種を探した

大野木さん「私が担当したのは『SEES SCHOOL』です。伊那市の農家さんやプロダクトデザイナーに講師をお願いして。参加することで、すぐにビジネスを生み出せたわけではないけれど、地域資源というか、例えば味噌蔵が近くにあったけど素通りしていた、といった気づきになったようです。」

黒岩さん「『TAKIBI SEES』は、焚き火を囲んでゆるゆると話すのがいいんですよね。話し手と聞き手という関係性ではなく、その事業を、どんな思いでやっているのか、フラットに会話ができる。『就職先の候補が見つかりました』と学生さんが言ってくれるなど、企業にとって採用活動の場にもなっているようです。」

「SEES SCHOOL 2023 《秋編》」では、講師に様々な地域の風土・風景と向き合い、編集し、ものづくりをする7名をお招きし、具体と抽象、自然と経済、暮らしとビジネスなど、様々な視点を行ったり来たりしながら、おのおのの興味や違和感を探った
「SEES SCHOOL 2023 《秋編》」では、講師に様々な地域の風土・風景と向き合い、編集し、ものづくりをする7名をお招きし、具体と抽象、自然と経済、暮らしとビジネスなど、様々な視点を行ったり来たりしながら、おのおのの興味や違和感を探った
森と暮らしの仕事に出会える焚火会「TAKIBI SEES」
森と暮らしの仕事に出会える焚火会「TAKIBI SEES」

そして2025年2月には、農林業・自然資源と共に生きるビジネスのこれまでとこれからについて、一緒に考える「SEES CONFERENCE」を開催。用意された席は満席となり、賑やかな一日となった。

奥田さん「カンファレンスは、もう少し僕らがビジネスに歩み寄ったかたちを考えたいね、と。来てほしい人たちに来てもらえたという実感があります。こういった施設って、受動的な場になりやすいと思うんですが、僕らは能動的な場としてメッセージを出していきたい。伊那はいい場所なんですけど、人通りの少ないこの場所で待っていても、誰も来ない。旗を立てるという意味合いで始めました。」

塚田さん「inadani seesが気になっていたけど、まだ足を運んでいなかった人にも来ていただくことができました。届けたい人には届いてるけれど、もっと身近な人にも届くといいなと。地域の人たちに、inadani seesの雰囲気や考えていることをひらけた機会になったと思っています。」

伊那谷の面白さについて、学び、考える、inadani seesのカンファレンス「SEES CONFERENCE」。つづいていくまちについて、一緒に考えた
伊那谷の面白さについて、学び、考える、inadani seesのカンファレンス「SEES CONFERENCE」。つづいていくまちについて、一緒に考えた

インキュベーション施設が、マガジンをつくるということ

そして2025年4月には、「sees magazine」が発売開始に。インキュベーション施設を運営する彼らが、なぜマガジンをつくろうと思ったのだろうか。

奥田悠史さん

奥田さん「里山の風景がある、水が美味しいって、ほとんどのローカルはそういう状況なわけです。その中で、わざわざ伊那で事業をする状況をつくるって、相当なことだなと思っていて。だから、このinadani seesが、どのような価値観で、何を生み出したい場なのかを、より発信したいという背景がありました。

僕らは、“インキュベーションってそもそも何だろう”、“続いていくってどういうことなんだろう”と、考え続けています。インキュベーション施設を運営するために、インキュベーションの事例を調べて、こういう感じかなと運営するのってまあまあ死んでいる状態で、必死に考えているからこそ、問いは生まれる。問いを考え続けることこそ、生きている証拠だと思うんです。」

この場所が、伊那市にあってよかったねと言われる10年後をつくるってどういうことなのか。答えを誰も持ち合わせていないとしたら、自分たちで答えをつくるしかないのではないか。では、どんなふうに答えを見出していくのか。奥田さんは、かつてライターとしてさまざまな農家さんのもとへ行き、話を聞いた経験から得た、自分をかたちづくるものについて話してくれた。

奥田さん「事業として成功をおさめている人ばかりでなく、小規模な農家さんのところへも行っていました。13年前くらいに大雪が降ったとき、農業用ハウスが倒壊して、被害が大きかったんです。とあるおじいちゃんに話を聞きに行ったら、コンビニのゆで卵を3つも食わされたんですよ(笑)。これすごい美味しいんだよって。ハウスが倒壊して苦しい思いを聞きながら、ゆで卵をいただく、その体験が僕をかたちづくっているなと思って。」

みんなで取材に行って、このマガジンをつくることが、チームにとってすごく重要なのではないか。何かを考えるときに、誰かの生の声や、みんなで見た風景が広がるのではないか。

奥田さん「誰もが輝かしいわけではなくて、しがらみや自分の能力のなさで苦しんでいる人たちのことが頭に浮かぶだけで、想像力が少し広がると思うんです。インキュベーション施設は、そうであってほしいと思っていて。都市部だったら、頑張れる人を応援するのもいいと思うんですけど、ローカルにおいては、頑張っているけどちょっと不器用だったりするような、愛すべき人たちがたくさんいる。

なので、マガジンをつくった理由は、チームみんなで想像力をもつということなんです。答えのない、生きているからこそ出てくる、質のいい問いを探しに行く行為は、すごく意味があるんじゃないかと。それを世の中の人たちに知ってもらうことで、僕らみたいに施設を運営する人や、ローカルで生きている人に参考になったらいいなと思いました。」

seesmagazine
sees magazine 一部抜粋

黒岩さん「生の声を聞いて、本当に良かったなと思っていて。大事っぽいなと思っていたけど、やっぱり大事だっていう、そういう感覚をみんなで深めることができたのがすごく良かったし、実際に聞いたことで、自分の話す言葉に油が乗ってきた感じがします。一次情報をたどって確かめるって、すごく大事だなって。」

大野木さん「実際に自分たちでインタビュー記事を書いて、チームでやり取りをする中で、その記事で扱う内容についての洞察が深まった実感がありますし、ちょっとずつ言葉や考え方が定着している感じがします。」

塚田さん「変な言い方ですけれど、『できたんだ』って思ったんです。できたじゃんと。つくれるってことがわかった。嬉しかったですね。フリーペーパーにするという手段もあったと思うけれど、販売するという届け方にもこだわりましたね。」

奥田さん「やっぱり自分たちで書いたのが、すごい良かったですね。書くなかで学んだり、再解釈したり。雑誌をつくるという経験を通じて、僕が普段言っている伝わりにくい話が、いろんな人の言葉を通じて、なんとなく共有できたのかもしれません。」

インキュベーションが生まれるために必要なことってなんだろう?

企てをかたちに変えていく場。inadani seesにおいて、インキュベーションが生まれる場というのは、どういう場なのだろうか。

「inadani sees」内観

奥田さん「それは、偶然性がキーワードになると思います。いろんな人が混ざるとか、いろんな学びがあるとか、きっかけが落ちていることが、企てをかたちにする上では大事なエッセンスなのかなと。人の出会いって、たまたまが面白く転がっていく方が思いもよらない場所に行けたりする。さらに、それが信頼のおける関係性の中で起こることが、大事だと思います。」

inadani seesが始まる前の打ち合わせの場で既に、『卵が孵るあたたかい場』という言葉が出ていたのだとか。新しい事業をインスタントに生み出していくのではなく、自然の成り行きも大事にしながら、誰かの思いがかたちになっていく場になったらいいのではないか。

黒岩さん「これまで、あまり決めすぎないようにしてきたんですよね。境界をつくらず、ここを譲ってしまったらinadani seesの大切にしたいことが揺らぐのではないか、みたいなところを都度話し合って。とはいえ目の前に困っている人がいたら手を差し伸べないのも苦しい、と日々迷いながらやっているんです。」

奥田さん「あたたかくなければ卵は孵らないっていうのは、重要かもしれないですね。普段とは別の方向に歩いてみたら、いつの間にかすごく面白い場所に来ていた、みたいな場をつくるのが大事で、それは時間がかかるし、成果が見えづらい。でもその道をつくらないと、面白くないインキュベーション施設になってしまうと思うんです。

本来、インキュベーションってわくわくすることで、それはちょっとあったかい方向性だと思うんですよね。逆に上場を目指しましょうという方向性って、心拍が上がって熱くなるけど、足元は冷えている、という感覚があるんです。」

もっと緩やかでも、遅くてもいいのではないか。たとえ小さくても、悪循環の経済成長に乗せるのではなく、僕らの世代が混ざりたいと思えるような、ほっとして楽しそうな「企ての種」をつくることが、結局は“続いていく”のではないか。

奥田さん「ただ場所があるだけでは、企ての種は生まれないと思うんです。その企ての種が落ちるための企ては、簡単に言えば、この場所に何かわくわくするような期待感があるか。お祭りじゃないけど、そこに行くと嬉しくなることをつくるのが大事だと思っていて。そのために入口をいくつも用意しているんです。」

ビジネスを生むためのビジネススクールではなく、美味しいご飯を食べる日もあれば、問いを深める日あればもあれば、コンセプトデザインについて学ぶ日もあれば、街中に出てみる日もある、といったように。
奥田さん「僕は、会社や施設を生態系として捉えている面があります。ぐるぐると回って、何かが出てくるのが自然だと思うんですけど、すごいわかりづらい。でも、それぐらい複雑なデザインをしないと面白いことや必要なことは出てこないだろうなっと思っています。

生態系っぽさをいかに組んでいくのか。inadani seesがやるべき企ては、ファイナンスの話ではなくて、みんなで薬草を取りに行くとか、コーヒーを淹れるとか、映画を観るとか、経済合理性で考えたら不要なこと。それらは、機能としてはよくわからないけど、失ったら全体性が失われる。インキュベーションのイメージからかけ離れているような、無駄と遊びみたいなことが大事だなと思うんです。」

inadani sees マネージャーの奥田さんと、運営メンバーの大野木さん、黒岩さん、塚田さん

卵が生まれて、あたためる行為があって、やがて孵化するということ。農林業という、生命と向き合う事業だからこそ、急速に成長させようとしないこと。土づくりにたとえれば、化学肥料を混ぜて急いで成長させるのではなく、最初に土をつくるために、時間をかけること。

inadani seesは、この4月で3年目。これからどんなあらたな企てがされていくのか、そしてどんな卵が孵化するのか、ぜひ彼らの実践を見守ってほしい。

文 増村 江利子

inadani sees
https://inadani-sees.jp/