映画産業──自由と統制、文化と産業の間で輝く「娯楽の王様」

(※本記事は経済産業省が運営するウェブメディア「METI Journal オンライン」に2026年6月2日付で掲載された記事を、許可を得て掲載しています)

昭和の時代、映画産業は「娯楽の王様」として、日本のエンターテインメントの世界で圧倒的な存在感を示していた。国民的な娯楽であるとともに、高付加価値の輸出品でもあり、日本のイメージを世界に伝えるソフトパワーの源泉にもなった。米国ハリウッドをはじめ諸外国から輸入された洋画は、日本人にとって海外への関心を高め、理解を深める役割も担った。

文化、経済、内政、外交…様々な側面で影響力を持ってきた映画。創造性と政策とが交錯したその軌跡を振り返り、未来への展望をさぐった。

リュミエール兄弟の上映会から2年後

1895年(明治28年)12月28日は、人類の文化史に新たなページを開いた。フランス・パリのグラン・カフェ地階で、リュミエール兄弟が、自らが発明したシネマトグラフによる世界初の有料上映会を開いたのだ。工場から出てくる労働者や駅に滑り込む機関車を撮影したわずか50秒の動く映像。それを目にした観客の驚きは、そのまま映画という新しいメディアの持つ可能性を物語っていた。

わずか2年後の1897年(明治30年)、リュミエール兄弟と留学時代に交友のあった実業家の稲畑勝太郎氏がシネマトグラフと興行権を携えて、フランスから帰国。ここから日本における映画産業の歴史が始まった。

「活動写真」から一大産業へ

明治時代、「活動写真」と呼ばれた新しい見せ物は、瞬く間に庶民の心をつかんだ。

1903年(明治36年)には、東京・浅草に日本初の常設映画館「電気館」が登場。以後、大正期には全国各地に映画館がつくられ、人気スポットとなっていく。昭和に入ると、阪東妻三郎や嵐寛寿郎の「チャンバラ映画」が大衆を熱狂させ、小津安二郎や溝口健二が独自の映像表現を開花させていった。

この間、大きな技術革新が起こる。トーキー(発声映画)の誕生だ。日本では1931年(昭和6年)に松竹が制作した五所平之助監督の「マダムと女房」が、その第一号だと言われる。トーキーは音響設備への巨額投資を促し、大手への集約を加速化。映画産業の構造を大きく変えていく契機となった。

東京・浅草の映画館「富士館」(1942年、国立映画アーカイブ提供)
東京・浅草の映画館「富士館」(1942年、国立映画アーカイブ提供)

映画法を公布。国家統制の手段に利用

映画の持つ大衆動員力を国は放っておかなかった。1939年(昭和14年)、映画の国家統制を目的とした映画法が公布された。

「本法ハ国民文化ノ進展ニ資スル為映画ノ質的向上ヲ促シ映画事業ノ健全ナル発達ヲ図ルコトヲ目的トス」──映画法第1条はこう明記されている。

「国民文化の進展」を大義名分に掲げつつ、「制作・配給の許可制」「脚本の事前検閲」「文化映画・ニュース映画の強制上映」「外国映画の上映制限」など、あらゆる側面から映画を国家の管理下に置いた。一方で、映画界はこの統制を必ずしも拒否したわけではない。当時、映画会社は「水商売」とみなされ、銀行から融資を得ることすら困難だった。映画法による位置づけは、業界にとって信用獲得の足がかりでもあった。

戦局の悪化とともに「映画は弾丸である」というスローガンが広まり、映画会社の統廃合が進められる。1942年(昭和17年)には、新興キネマ、大都映画、日活の制作部門が統合され大映が設立され、松竹、東宝、大映の3社体制が確立された。

内務省からGHQへ。続く検閲体制

敗戦の年の1945年(昭和20年)12月、映画法は廃止された。しかし、映画に対する統制は形を変えて続いていった。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が独自の検閲体制を敷いたのだ。

民間情報教育局(CIE)が脚本段階での審査を、民間検閲支隊(CCD)が完成フィルムの検閲を担当した。脚本の事前提出、内容審査、上映可否の決定という3段階のプロセスは映画法下の検閲と共通したものだった。変わったのは、検閲の主体が内務省からGHQになったことと、目的が戦意高揚から民主化になったことだった。

GHQの検閲は、軍国主義や封建的忠誠を禁じ、「チャンバラ禁止令」の異名も生まれた。一方で市民的権利を描く作品は奨励され、黒沢明監督の「わが青春に悔なし」など「民主主義映画」が次々と制作された。

しかし、政策の転換以上に重要だったのは、娯楽に飢えた観客の存在だった。戦時統制から解放された人々は映画館に殺到。その爆発的な需要こそが、映画の黄金期を築いていくことになる。

黒沢明監督の戦後第1作「わが青春に悔なし」の一場面 ©TOHO CO., LTD.
黒沢明監督の戦後第1作「わが青春に悔なし」の一場面 ©TOHO CO., LTD.

「撮影所システム」が支えた黄金期

昭和30年代、映画は黄金期を迎える。1958年(昭和33年)には年間11億2700万人が映画館に足を運び、国民1人当たり年12回以上スクリーンの前に座った計算になる。1960年(昭和35年)には制作本数547本、スクリーン数は7457を記録している。

黄金期の映画制作を支えたのが「撮影所システム」と呼ばれるものだ。大手各社は広大な撮影所を持ち、監督、脚本家、俳優、撮影技師から大道具、小道具に至るまで数千人規模の専門家を常時雇用。スター俳優を軸に、毎週のように新作を劇場に送り出した。さながら「映画工場」とも言えるシステムが質量ともに世界でもまれな規模の映画産業を成立させていた。

巨匠今村昌平監督を父に持ち、カンヌ映画祭パルムドールに輝いた「うなぎ」の脚本家でもある日本映画大学学長の天願大介氏は、当時の映画制作現場は、現代とは全く異なる環境だったと語る。

「昭和の映画制作現場は『組』と呼ばれるチームで動き、監督は『組長』として君臨するピラミッド型の組織でした。寝ずに、時に法律さえ破って映画をつくることが当たり前という環境の中で、新人は現場でもまれるうちに一人前となる……。今では許されませんが、撮影所は作品を生み出す場であると同時に、人を育てるギルドでもあったのです」

「撮影所は作品を生み出す場であると同時に、人を育てるギルドでもあった」と語る天願大介氏
「撮影所は作品を生み出す場であると同時に、人を育てるギルドでもあった」と語る天願大介氏

「五社協定」の壁。新たな才能も

喜劇の東宝、時代劇の大映、人情モノの松竹、アクションの東映──各社のカラーが際立ったのは、監督、俳優を専属で抱える体制と不可分だった。この体制を制度的に支えたのが1953年(昭和28年)、大手映画会社が結んだ「五社協定」だ。

専属人材の引き抜きと貸し出しを禁じるこの協定は、各社のブランドを守る一方で、独立プロダクションの活動を著しく制約した。このため、独占禁止法違反を懸念する声も上がった。1966年(昭和41年)、当時の竹中喜満太公正取引委員会事務局長は、国会でこう答弁している。

「独立プロという映画制作所があって『異母兄弟』という映画をつくりました。それに出演した俳優が、契約が切れておらないにもかかわらずほかの会社と契約した。こういう俳優を使った映画は5社の系統には流さないということで、その上映はできなかったわけでございます。これを独禁法違反ではないかということで問題にしました」

映画会社側が自主的に違反の疑いがあるとされた条項を削除したため、公取委はこの件を不問に付した。五社協定は映画の黄金期を支えた基盤であると同時に、その閉鎖性が新しい才能の参入を阻む壁となった。

一方で制度の枠外から独創的な作品も生まれた。新藤兼人監督が500万円の予算でセリフを一切排して制作した「裸の島」は、1961年(昭和36年)にモスクワ国際映画祭でグランプリを受賞。大手の輸出ルートとは無関係に、自力で世界に到達した。

「羅生門」の衝撃。輸出品として世界へ

敗戦からわずか6年後の1951年(昭和26年)、黒沢明の「羅生門」がベネチア国際映画祭で最高賞である金獅子賞を受賞した。これは政府に映画の持つ対外的価値を認識させる契機になった。

1957年(昭和32年)、通商産業省(現経済産業省)、外務省共管の下に日本映画海外普及協会(ユニジャパン)が設立された。1966年(昭和41年)からは興業長期信用銀行経由で年額20億円の融資が3年間にわたり実施されるなど、金融面でも映画への支援体制が強化されていく。

ただ、昭和期の日本映画の国際展開は苦戦した。東宝はロサンゼルスに会社を設立し、約20拠点に事務所を展開したが、世界で勝負する作品の供給は続かず、次々と閉鎖された。

テレビの普及、大きな打撃に

映画産業に大きな打撃を与えたのが、テレビの普及だった。入場人員はピーク時の11億2745人(1958年)から、1968年(昭和43年)には3億1339万人に、わずか10年で3分の1以下に減少した。

こうした状況を受けて、東宝は大胆な戦略で生き残りを図る。制作機能を縮小し、配給・興行に軸足を移したのだ。更に、創業者の小林一三が構想した「百館主義」と呼ばれる、全国の超一等地に直営映画館を建設する戦略が効果を発揮する。後々、ホテルや商業施設と一体化することで映画館の不動産としての価値を高め、現在に至るまで東宝の経営基盤を支え続けている。

映画とテレビの関係について、松竹のテレビ室長を務めた橋本正次はこう振り返っている。

「テレビは好ましい相手ではなかった。(中略)テレビに力を入れることがプロとしての誇りにならず、かといってテレビの時代の波に乗り遅れてもいけない。そういう葛藤があった」

競争と協業で映像文化育てる

映画会社は葛藤を抱えながらも、テレビドラマの制作や放映権販売を収益源としてテレビに参入。撮影所で鍛えられた人材がテレビに移っていく。松竹、東宝、東映がテレビ部をつくり、監督や脚本家をテレビに送り込んだ。例えば、「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎たち」などで知られる山田太一氏も元は松竹の助監督だった。

映画とテレビは競争と協業を重ねながら、日本の映像文化を共に育てていったと言えるだろう。

産業、文化の両輪支援。昭和の遺産今も息づく

昭和の映画産業が築いたものは、昭和の終焉とともに消えたわけではない。

撮影所システムで育った映像技術の蓄積は、テレビドラマ、CM、アニメーション制作へと受け継がれた。映画会社はテレビ番組制作やビデオソフト事業に活路を見いだし、映像産業の担い手として生き延びた。黒沢明氏、宮崎駿氏といった世界を夢中にさせる映像作家の系譜は、昭和の撮影所文化の中で培われた技術と職人気質なしに成立しなかっただろう。

現在、公益財団法人の「ユニジャパン」は、かつての通商産業省の輸出振興機能と文化庁の文化支援機能を統合した組織として、海外映画市場でのプロモーションと国際映画祭への出品支援を一体的に行っている。産業振興と文化振興を両輪で進める──昭和の映画政策が提示した課題への、一つの回答だとも言える。

「面白いものが出てくる可能性を潰さない」

映画監督の是枝裕和、諏訪敦彦両氏らは、フランス国立映画映像センター(CNC)や韓国映画振興委員会(KOFIC)をベンチマークし、「日本版CNC設立を求める会」を発足。チケット代から1%を徴収し、映画産業全体に再配分する共助システムを提唱している。2024年(令和6年)には、政府の「新しい資本主義実現会議」で、是枝氏が映画産業振興について提言。6月には映画文化・産業の施策を統括する協議会と「映画戦略企画委員会」の設置が閣議決定された。

Netflixなどの配信プラットフォームが大きく成長し、日本の作品の中からも言語の壁を越えてヒット作が生まれるなど、映画産業を取り巻く環境は大きく変化している。映画などコンテンツ産業をいかに日本の「勝ち筋」として育成していくか、今まさに議論は続いている。

天願氏は昭和の映画界を振り返り、未来を展望する。

「正論が強くなっていくと、反動が必ず来る。そうなる前にバランスを取るための、ガス抜きの役割を担うのが芸能や芸術というジャンルだと思います。多少は『乱暴』なものも許容する社会であってほしい。好きにやらせて、面白いものが出てくる可能性を潰さないことが大切です」

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