繊維業界が冬の時代に事業承継 海外進出や新ブランド展開で再建図る
(※本記事は日本政策金融公庫が発行する広報誌「日本公庫つなぐ」の第32号<2024年8月発行>で掲載された記事を、許可を得て掲載しています)
岐阜県西濃エリアから愛知県尾張西部に広がる「尾州」地域は、古くから毛織物産地として発展してきた。この地で137年の歴史を持つ三星毛糸株式会社の5代目社長・岩田真吾氏は、厳しい経営環境の中、海外進出や新ブランド展開により事業の再建を図る。さらに、コロナ禍で打撃を受けた地域のために、繊維産業を観光資源としたイベントを発起人の一人となって企画。地域と業種の枠を超えて後継者とスタートアップが交流するコミュニティーを立ち上げるなど、新たな取組みに挑む岩田氏を取材した。
良質な生地作りには、良質な水が欠かせない。尾州を流れる木曽三川の軟水は、羊毛を加工する際に使用すると、実に柔らかなウールに仕上げることができるという。
三星毛糸株式会社を中核とする三星グループは、尾州で育った100年企業の1社で、その歴史は1887年、岩田志ま氏が綿の艶つけ業で創業したことにさかのぼる。やがて和服から洋服へとニーズが変化し毛織物の需要が増すと、それに呼応するように毛織物分野へと進出。1931年には毛織物の染色整理加工会社、1948年には羊毛を原料に糸を作る紡績工場として三星毛糸株式会社が誕生した。その後も関連事業を次々と立ち上げていき、生地生産における一貫生産体制を築いた。
現在、社長を務めるのは2010年に事業を引き継いだ5代目の岩田真吾氏だ。実は岩田氏が事業承継した時代、かつて隆盛を極めていた繊維業界は冬の時代を迎えていた。さらにリーマンショックの直後で、経営環境は厳しさを増していた。そこで岩田氏は海外展開や新ブランドの立ち上げ、世界の一流ブランドに使われる上質な毛織物を生み出すなど、新たな挑戦を続け、同社を発展させていった。
1981年に4代目社長・和夫氏の長男として誕生した岩田氏は、「特に祖父にはかわいがってもらいましたね。子どもの頃から『おまえは後継ぎだぞ』と育てられたのですが、東京への大学進学を機に視野が広がり、後継ぎだけが道ではないな、と思い始めました」と振り返る。
意気揚々と東京から戻るも承継1年目にして大失敗
大学時代に広告代理店でインターンを経験し、チームを組んで大きな仕事をする楽しさに気付いた岩田氏は、大手商社に就職し東京で勤務。仕事に没頭する2年間を過ごす。その後、他の世界も見るために外資系コンサルティング会社へと転職している。
元々経営に興味があったという岩田氏は、「コンサルタントは経営者の相談役という立場なので、自分のスキルを磨いていける。オーナー思考を持って動き、自分の仮説を世に問うていきたい」という思いで働く中で、ふと「そういえば自分は後継ぎだった」と気付いたという。
「東京で働き続けるのもいいけれど、100年以上続く地方企業で後継ぎとして変革していく方が、ユニークで面白い人生だし、社会的意義があると考え、27歳で実家に戻りました」
2009年に東京から戻り当社に入社した岩田氏だったが、入社からわずか10カ月で事業承継が行われ、代表取締役社長に就任することになる。
「さすがに早いと思いました(笑)。でも父から、『若い社長は稚拙かもしれないが、一方で機動力がある。同様に、経験を積んでから社長になることにもメリットとデメリットがある。両者をてんびんにかけたら、メリットとデメリットは同じくらいだろう。ならば、何度もチャレンジできる若いうちに継いでもいいのではないか?』と言われた気がして決心しました」
「自分ならV字回復させられる」と思っていた岩田氏は、四半期ごとの数値目標の追求やKPI管理など、前職で培った経営手法を積極的に導入していく。しかし、1年目の業績は横ばい。そればかりか、従業員の表情が次第に暗くなっていったという。
経営手法に悩んだ末、岩田氏は企業再生を手掛ける先輩に相談する。「その時にもらった言葉が大きな転機となったんです」
その言葉とは、「その若さで社長になったのだから、企業再生支援のように1~2年で結果を求められる短距離走のような考え方ではなく、20年、30年という単位で自社の経営を見てみたらいいのではないか」というものだった。
「何か肩の荷が下りたような気になりました。これからは腰を据えてやっていこうと、『自ら汗をかき、背中で見せる』ことから始めようと思いました」
自社ブランドは自身の「変革」から始まった
そこから岩田氏は、今までの意識を変えて、まずは自ら率先して行動することにした。誰よりも早く出社し、最後に帰り、生地を詰めたスーツケースを手に積極的に海外へ営業に出かけた。すると、次第に従業員の表情も変わっていき、業績も少しずつ回復していった。
2012年、プルミエール・ヴィジョン・パリへの出展を機に、海外企業との取引がスタート。ヨーロッパのラグジュアリーブランドへの商品開発を通じて、自社製品の価値を再確認する機会にもなった。
一方で、国内市場でも新しい取組みを始めた。
「ウールって、実は夏でも、カジュアルでも使えるということを伝えるために、自社ブランドを立ち上げました」。それが2015年に発表したブランド『MITSUBOSHI 1887』だ。Tシャツをはじめ、ジャケットやストールを展開し、年を追うごとにファンが増えているという。
後継者が業界と地域をつなぐ「ひつじサミット尾州」
海外進出を開始し、自社ブランドを立ち上げ、まさにこれからという時期に、コロナ禍が世界を襲った。在宅勤務が世の常識となり、スーツを着る機会も激減した。
尾州では、糸から生地になるまでの多くの工程を、地域内の分業・協業によって行っている。紡績、撚糸、染色、製織、編立、整理加工といった各工程で、専門的かつ高度な知識と技術が長年にわたって継承され、エコシステムとして確立されてきた。いわば、尾州全体が一つの大きな工場として機能してきたのだ。このシステムがコロナ禍によって危機に直面することとなった。
「この産地の分業制そのものが壊れてしまうのではないかと危惧しました。そのとき、自分の中で『パチン!』とスイッチが入る音がした気がしたのです」。心の中で何かが弾け、それは次の行動を生み出した。
「産地としてつながろう。でも、100年もの間別々に歩んできた会社が、いきなり何かを一緒にやるのは難しい。そこで、まずはお互いをもっとよく知る機会を作るべきだろうと。その一環として、工場内を見てもらうオープンファクトリーを開催すれば、作り手だけではなく、お客様も巻き込み、社会的なインパクトも生まれると思ったんです」
「尾州を救うイベントを開催できないものか」と、後継者仲間である友人2人に相談すると、アイデアに共感した後継者11人がさらに集まり、イベント企画に着手した。そして2021年、「ひつじサミット尾州」という新しいイベントが始動した。このイベントには「持続可能性」「地域共創」「担い手育成」「事業承継」「産業観光」という5つの目標を掲げていた。
「イベントタイトルの『ひつじサミット尾州』のひつじを平仮名にすることにこだわりました。生き物の羊だけではなくて、ゆるふわの象徴やその概念を伝えたかったからです。工場見学やワークショップなどを通して、持続可能性を体感できるようなイベントを企画しました」
このイベントは、普段顧客に接する機会が少ない従業員や職人たちの意識を変え、地元の商工会議所の協力を得るなど、さまざまな波及効果をもたらした。「ひつじサミットを機に若い担い手が入社してくれたのもうれしかった」とも。何より地元の後継者たちがゼロから新しいものを生み出すことで、「後を継ぐってカッコいい、やりがいがある」という新しい事業承継の機運を醸成することにもなったという。
日本初の試みがさらなる刺激に 「アトツギ×スタートアップ」
「『ひつじサミット尾州』の開催を通じて、生まれてきたものがあります。実行委員会のメンバーは後継者=“アトツギ”たちなのですが、彼らのリーダーシップを育む貴重な機会となりました。雇用関係や利害関係のない人たちに協力してもらい、大きなムーブメントを起こすという体験は、個々の企業だけでなく、地域にとってもパワーアップにつながっていると思います」
さらに、尾州地域・繊維産業が中心の「ひつじサミット尾州」の経験から、業種・地域の枠を超えたコミュニティーができないかと考え、2023年7月にはアトツギ(老舗企業)とスタートアップが協力して新しい価値やアイデアを生み出す「タキビコ」という日本初のコミュニティーを立ち上げた。
「スタートアップの大半が首都圏に集中する一方で、老舗企業のアトツギの多くは地方に根差しています。そして、スタートアップには革新的な知見と緊張感があり、老舗企業には豊かな物語性や信頼感がある。これまで接点の少なかった両者が交わることで、新たな価値が生まれるのではないか、と思ったのです」
マッチングではなくクロッシングという考え方
さらに岩田氏は、「タキビコで目指しているのは、短期のマッチングではなく中長期的な関係を作るクロッシング」だと続ける。タキビコから生まれる新しい価値、特に事業承継や業態変革時の新サービスの導入は、アトツギとスタートアップの双方にとって大きなメリットになる。アトツギは新しいサービスを導入しやすくなり、スタートアップは中小企業の市場攻略のノウハウを蓄積できる。
「アトツギ×スタートアップというコンセプトは、日本全国に適用できます。世界で100年企業が一番多いのは日本ですから、スタートアップと100年企業をクロッシングするというコンセプトで戦えば、世界市場でもチャンスがある」と熱意を込めて語る。
岩田氏は、東京勤務時代のスタートアップとの交流を継続しつつ、地元の後継者グループにも所属している。この独自の立場を生かして立ち上げたタキビコは、従来接点のなかった二つのコミュニティーを融合させ、互いに大きな学びをもたらす場にもなっている。
「現在は別々に実施されているスタートアップ支援と事業承継支援ですが、『混ぜるな危険』ではなく、『混ぜないと危険』なんだという思いで続けていきたい。そして、この取組みをさらに広い地域に展開していこうと考えています」と、今後の展望に目を輝かせる。
事業承継とは物語を継ぐこと
自社改革から始まり業界や地域の活性化、さらには全国へと活動の場を広げている岩田氏に「事業承継とは何か?」と尋ねた。
「『物語を継ぐこと』だと考えています。親族内承継をした企業の中でも、今注目されているような会社は事業内容を変革しているケースが多い。事業内容や資本構成、さらには社名まで変更しているところもあります。こうしてみると、後を継ぐということは、『先代たちから受け継いだ価値観を未来に向けて進化させる』という物語性だと思うのです。つまり、信頼や共感といった無形資産を引き継ぎ、それを新たな価値へと昇華させることが重要です」
さらに、揺るぎないDNAさえあれば、変わることを恐れないことだとも付け加える。
「創業者が女性起業家ということもあり、多様性といった要素は、私たちのDNAの中にしっかり流れていて、今後も大切に承継していきたいと考えています」
事業を承継し、困難な決断やさまざまな状況変化を前に、失敗と挑戦を重ねてきた今、「まだまだこれからチャレンジだ」と語る一方で、この14年間でタフさも身に付けたという。
「たぶん、1年目の失敗がなければ、今の三星毛糸はなかった。ピンチは、真の意味でチャンス。乗り越えられると信じているからこそ、ピンチが来ても『よし!来たか!』と、ニコっと笑いながら向き合えるのです」。目指しているのは、従業員が誇りに思える“100年すてきカンパニー”だ。
事業承継とは先代が築いてきた物語を受け継ぎ、発展させていくこと。そして岩田氏の言葉からは、その物語の主人公は企業を継いでいく一人一人なのだと強く感じられる。尾州を起点に、多くの主人公たちの想いが日本全国に発信される日も近いだろう。
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