震災を経てパワーアップ 三陸の港、宮城・気仙沼が漁師たちを惹きつける理由
(※本記事は経済産業省が運営するウェブメディア「METI Journal オンライン」に2024年11月11日付で掲載された記事を、許可を得て掲載しています)
暑さが和らぎ一気に冬に突入しようとしている三陸。日本有数の漁港街、宮城県気仙沼市の気仙沼魚市場では、例年になくカツオ漁が続き、三陸沖に南下してきたサンマの水揚げもまずまずと、賑わいを見せる。冬に向かうこれからはカキ、ホタテが旬を迎え、厳冬を越えた初春には、うまみがぎっしりと詰まったワカメが揚がるなど、三陸の街は味覚の最盛期が続く。カツオ船は宮崎県、高知県、三重県、静岡県から、サンマ船は北海道、青森県、福島県から――。宮城・気仙沼漁港には、各地の漁師たちが集まる。その理由を探った。
海と陸(おか)の信頼が守る魚の鮮度
2024年10月下旬の午前4時半すぎ。気温は10度を下回る中、男たちが三陸沖でサンマ漁を終えた青森県船籍の「第六十五新生丸」に集まる。その数、20人ほど。船内には船乗りたち、陸に立つのは船の「お世話係」と呼ばれる問屋の男たちだ。船の事実上の主ともいえる「船頭」は操舵室から船員たちの動きに目を光らせる。
午前5時、笛の合図で船に搭載された大型の網二つが、船の甲板下の船倉で氷とともに管理されたサンマをすくい上げ、陸揚げする。1回あたり200-300キロほどだ。
「そっちいったぞ!」「まだこっちだ。もうちょっと待てぇ!!」
大声でのかけ声や笛の合図は船員と市場関係者の安全を守るためだ。小雨の中、氷とともに水揚げされたサンマが次々と、市場の岸壁に置かれた保冷機能のある大型の箱「ダンベ」に移される。かつてはトラックに直接積み込んだが、ダンベへ移すことで鮮度が保たれる。サンマで満たされたダンベは、市場を運営する気仙沼漁業協同組合の関係者が操縦するフォークリフト2台が休みなく競り場へと運ぶ。この日の水揚げは約100トン。終えるまでには2時間以上を要した。
漁師にとって、荒波の中で操業する洋上は命がけだ。洋上に比べれば水揚げはたやすいかもしれないが、水揚げもケガと隣り合わせ。だが、海の恵みの鮮度を保った状態でいかに素早く競りにかけるか、勝負の局面である。時間をかけてはいられない。水揚げの最中も、仲買人がひっきりなしに近寄ってくる。サンマのサイズはどうか、目はどうか、はたまた、胃の内容物は――、プロが獲った魚を、プロが吟味する。港は勝負の場だ。
気仙沼に県外の漁師が集まる理由は、陸(おか)にあるともいわれる。それが、問屋の存在だ。気仙沼に入船する船頭はそろって、「気仙沼にくる理由は陸の安心感だよ」(新生丸船頭)と口にする。「陸」の代表格が、「問屋」だ。問屋は、入船に合わせ、船の身の回りのことをすべてこなす。水揚げの手伝いはもちろん、船頭の意向に沿って漁に出られるように、燃料の給油から魚を冷やすための氷の準備、さらには、船員の食料の確保まで、身の回りのことはすべて仕切る。新生丸に対応したカネダイの岩槻英一さん(62)は、「船が最優先。気仙沼なら早く船を出せる。魚価が同じでも、ここで水揚げしたいと思ってもらわないといけない」と話す。
震災を経てパワーアップした魅力を支える漁師のための産業クラスター
気仙沼の問屋への信頼は、漁業や漁師たちを支える街全体の力ともいえる。漁に直接かかわる燃料や氷だけでなく、船の修繕・検査を担う造船所、「ハコ屋」と呼ばれる競り落とされた魚を運ぶための梱包材の会社、さらには、船員が陸で余暇を過ごす場所など、そろっていることも大事なポイントと言われている。
2011年3月の東日本大震災の津波では、気仙沼も、魚市場はもちろん背後地も壊滅的な被害を受けた。気仙沼漁業協同組合の齋藤徹夫組合長は、「大震災で多くの人が町から出ていってしまった。人手不足は水産関係全般で深刻だ」と、話す。ほかの三陸沿岸の漁港街と同じように再建の道は難路だった。それでも、再建に向けて関係者の背中を押したのは、「県外の船と気仙沼の水産関係者の良好な信頼関係だった」(齋藤組合長)という。気仙沼は県外籍の船の水揚げが多いこともあり、漁協運営でも魚価を決める買い付け側の仲買人が積極的にかかわり、鮮度を保つ取り組みや値崩れを防ぐことへの意識が高い。
震災からの再建にとどまらず、漁業を支えるため、さらに一歩を踏み出した業界が、造船業だ。
高さ5メートルは超えるだろう開閉式の防潮堤の先に延びる海洋に、大きな漁船を上げ下ろしする「シップリフト」と呼ばれる設備がある。国内では沖縄県と千葉県、そして宮城・気仙沼の3か所にしかないと言われるこの設備は、震災後に再建した気仙沼市内の造船会社5社が合併してできた「みらい造船」が、新しい拠点として2019年に整備した。
みらい造船は、人口減少が進む地域現状や将来を見据え、経営者らが結束して2015年に設立した。みらい造船の梶原美羽さんは、「それぞれの会社が復旧するのではなく、将来の競争力、気仙沼の水産業を支えるために、(常に)『100年先まで会社を続ける』を心において作った会社」と説明する。投資額が何億円ともいわれる大型の漁船は、漁師にとって財産そのものだ。船をいかに早く修理し、出港できるか、スピードが命だ。入る港に、安心して船を任せることができる造船所があるかどうかは大きなポイントだ。気仙沼漁港の入り口に位置する同工場は、防潮堤を備えることで「船も人も会社も守る」と、梶原さん。
みらい造船は、新工場を整備したことで、最大500トンの漁船も含め同時に10隻を修理できる環境が整った。年間で130隻の修理、6隻の建造を計画している。就業者は、協力会社も含めると300人規模に上る。漁業の基幹となる造船業が、震災を乗り越えて地域で存在感を増している。
漁業関係者以外をつなぐ“おいしいもの”
3大漁場の三陸沖の良質な水産物を提供する飲食店の存在も気仙沼にとっては、欠かせない。観光客のみならず、漁師たちの胃袋も支える。三陸、港町を訪れれば、寿司――となりがちだが、サンマなら塩焼きから、かば焼き、サンマの梅しそ巻きフライなど、王道から趣向を凝らした料理までさまざまだ。船に乗る船頭、船員らからすれば生食は船上の食事。幅広い食べ方にも港町の魅力がうかがえる。
三陸は、河川の浸食によって削られた山間に海面が入り込み形成されたリアス海岸が続く。小さな湾が複雑に入り組み、海岸線には小高い山が並ぶ。雨が森の土壌にしみ込み、長い年月をかけて栄養を含んで海に流れ込む。豊かな海が形成される所以だ。
豊かな土壌が作り出す山菜にコメ。コメから醸造される美味しいお酒も。気仙沼で水揚げされる海産物を楽しむ食材が、海以外からも採れる港町だ。地元で小料理屋「たに口」を営む佐藤良子さんは、「気仙沼は水産物のほとんどが集まる街。さらに山の恵みも楽しめる魅力的な土地」と話す。
気仙沼市は、大震災後、急速に人口減少が続いている。大学進学を機に県外に出てしまう若者も増えているという。しかし、地域で育まれた文化や営みの魅力は薄れていない。静岡県出身で震災後に移住して、みらい造船で働く梶原さんは、「地域の中にいると魅力を忘れがち。もっと若い人にも魅力を感じてもらいたい」。気仙沼では震災後、移住者が増えているという。
県外の船との信頼関係を作りながら、多様な文化を受け入れてきた気仙沼。食材や料理ももちろんだが、そこで営まれる生業(なりわい)にも深い“味”がある。
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