「ラーニング・ソサエティ」学びを続ける社会へ
「学習する組織」ならば聞いたことがある。だが「学習する社会」は聞いたことがない。「学習する社会」について少し考えてみよう。日本語にすると馴染みがないが、「ラーニング・ソサエティ Learning Society」といえば理解できるだろうか。いわゆる「学習社会論」である。ラーニング・ソサエティの歴史は、意外と古い。ロバート・M・ハッチンスが『ザ・ラーニング・ソサエティ』という書籍を執筆している。
ハッチンスを敷きながら考えてみると、生涯学習を思い描いてもらえればわかりやすい(というよりも、生涯学習を内包している)。すなわち、人間は生涯を通じて学習を継続しなければならないという考え方である。自身の選択により自己研鑽を自由に行い、またその学習成果について自身で責任を担う社会ということになろう。
以上の点を踏まえて、私なりにラーニング・ソサエティを定義したい。現代社会はハッチンスが考えたものより深刻なのではないだろうか。すなわち「生涯を通じて学習することを自身の選択で自由に行い、またその学習成果について自身で責任を負う」という考え方があらゆる領域で浸透している社会である。そのようになった背景としては、高度に複雑化した社会と知識基盤社会というのがあげられるだろう。社会がめまぐるしく変われば、必要とされる知識も変化するし、知識そのものも変化し続ける。その結果、常に新しい知識を習得せざるを得なくなった。もちろん、新しい知識を習得する/しないの自由は保証されているものの、その選択の結果は個人の責任へとふってくる。
ラーニング・ソサエティが徹底化された社会では、もちろん「学び・学習」が重要性を帯びてくる。ラーニング・ソサエティを支えるのは、多様なアクセス可能な「学びの場」である。かつて教育社会学者のM・トロウは『高学歴社会の大学』で、学びの場として様々な人々に開かれた教育機関であるユニバーサル・アクセス段階の大学というものを説いた。しかしもはや学びの場は、大学だけにとどまらない。制度化された科目や学問領域だけにとらわれない創造性など様々な学習に関わる指標や観点も生み出されてきている。
そして重要なのは、「何を学び」その結果「何にその学びを活かせるか」まで問われるようになることである。だからこそ、ラーニング・ソサエティでは「学習成果について自身で責任を負う」ことになる。したがって、学びを提供するものはどのようなセクターでも――企業内研修・人材育成・塾・学校すべてのセクター!――どのようなアウトカムが期待できるのかを明示しなければならなくなったのである。もちろん、学びのアウトカムの先に何があるのかを提示しなければならないが。
そのように考えると、これまで語られてきた「生涯学習」とは全く区別される事態であり、現代のほうがより先鋭化されたかたちで学びへの要求が高まっている。それは、社会からも個人に対して学びを要求しており、また他方で個人も学びに対しての成果を要求しているのである。