【音声配信連動記事】スリープヘルスが企業を救う 経営課題としての睡眠投資
2026年6月16日、月刊事業構想オンライン・月刊先端教育オンライン公式Xスペースのライブ配信「進化する構想」に、株式会社心陽およびai-X(エーアイクロス)株式会社 CEOの石田陽子(いしだ・ようこ)氏が登壇した。2025年2月には著書『Dr.Yokoの睡眠マネジメント 眠るほど、ぐんぐん仕事がうまくいく』(文芸社)を上梓した。臨床医療と公衆衛生の二刀流で企業価値向上のための健康経営戦略を設計する。
石田氏は1999年に北海道大学を卒業後、麻酔科専門医として高度急性期の臨床に約10年従事したのち、活動の場を手術室から企業へと移した。2011年に株式会社心陽を設立し、2015年には心陽クリニックを開業。医療とビジネスを両立するサービス基盤を整えた。健康経営は「企業が従業員の人的資本に投資し、社会的価値を高めるリターンを得る経営戦略」と定義し、投資内容の提案から実装支援、投資対効果の最大化を図るコンサルティングまで一貫して手がけている。
「隠れた最大リスク」としての睡眠 日本のGDP比2.92%という重み
冒頭で石田氏が示したのは、米シンクタンクのランド研究所が2016年に公表した試算だ。同レポート「ホワイ・スリープ・マターズ(なぜ睡眠が重要か)」によれば、日本における睡眠不足の経済損失は年間最大1,386億ドル、当時の為替で約15兆円、現在の水準では21.5兆円にのぼる。石田氏は絶対額よりGDP比で受け止めるべきだと強調する。日本の2.92%という数値は、同時期に試算された他国と比べて突出して高いからだ。
損失の内訳にも特徴がある。健康課題全般に起因する経済損失のうち、石田氏によればプレゼンティーイズムだけで64%、アブセンティーイズムを合わせると75%に達する。プレゼンティーイズムとは、出社はしているものの本来のパフォーマンスを発揮できていない状態を指す。石田氏は「本来100円稼げる人が睡眠不足でぼんやりして80円しか稼げない、その差の20円の積み重ねが21.5兆円になる」と説明する。睡眠課題に絞れば、経済損失の9割以上が生産性損失で説明できるという。
企業単位でみても影響は具体的な数字で示せる。石田氏が引く研究データからは、従業員1人あたり睡眠不足だけで月5万円以上の経済損失が生じているという。従業員100人規模なら毎月500万円が見えないコストとして流出している計算になる。スリープヘルスへの投資でこれを解消できるなら、月300万円を投じても200万円の便益が残る。石田氏は、このように投資対効果を可視化し、健康経営施策を企業価値向上のための経営判断として位置づける。
動かない「経営マター化」の背景にある健康と医療の混同
これだけの損失を前にしても、睡眠を経営課題と位置づける経営者は少ない。石田氏はその背景を、日本特有の「健康と医療の混同」に見る。多くの経営者は健康経営をヘルスケアや医療と重ね合わせて受け取り、健康管理センターや産業医、産業保健師が担う領域だと考える。人事や総務が勝手にやっているだろうというイメージが根強く、経営戦略の俎上には乗りにくい。
睡眠については、さらに固有の誤解が重なると石田氏は指摘する。人間は覚醒しているか眠っているかのいずれかであり、覚醒の質を支える基盤こそが睡眠である。栄養バランスの改善や1日の歩数といった「プラスアルファの生活習慣」より本質的である。睡眠中は意識がなく、何かを知覚することができないので、「睡眠の質」と表現されているものは、覚醒時の認知機能を評価しているに過ぎないと石田氏は説く。眠気の自覚は短時間睡眠が続くと頭打ちになる。また、睡眠時無呼吸症候群は重症になるほど本人の自覚症状が乏しくなることも、エビデンスの事例として紹介された。
現場では、担当者から人道的な色合いの濃い施し型ケアの稟議が上がる構図になりがちだ。「ハイリスクの従業員を探し出して手厚くケアすることが健康経営だ」という誤解が広がっている。経営層に届く質問は「同業他社は費用をいくらかけているか」「認証取得に必要か」といったもので、本来得意なはずの「いくら儲かるか」という投資対効果としての問いに接する機会が少ない。石田氏はこの状況を踏まえ、「情報の非対称性が強い医療や公衆衛生の言葉を、経営の言葉に翻訳するのが専門職の役割」と語り、スリープヘルスは疾病予防や健康維持だけでなく、集中力や注意力といった覚醒時の認知機能の向上、ひいては事故防止や品質向上、リスクマネジメント強化に直結する経営投資であると再定義する。
「健康診断は自分は大丈夫だから、お前が行ってこいよ」と部下を送り出すような、会社への貢献度が高い社員こそ、突然倒れて事業にダメージを与える存在になりうる。健康管理を「仕事の一部」と位置づけて評価する組織を築くことで、組織の正義や、知覚できる組織のサポート、心理的安全性、モチベーション、エンゲージメントが高まる。それらは組織の社会的価値の増大につながっていくと石田氏は語る。
「心理社会的集団免疫」 マーケティングとしての健康経営
打開策として石田氏が提唱するのが、「心理社会的集団免疫」である。感染症における集団免疫は、一定割合のメンバーが免疫を獲得すれば、ワクチンを打てない弱者まで含めて集団全体が守られる仕組みを指す。これを職場に応用し、スリープヘルスを実践する社員が一定数を超えると、実践していない社員にまで好影響が波及する状態を目指すという発想である。石田氏自身の研究では、上司のサポートを受けていると回答した人が多い組織では、実際にはサポートを受けていない人まで心理的苦痛が低いという、いわゆる文脈効果が確認された。
実装の鍵は、嫌がる人を説得することではない。石田氏が「こっちの水は甘いよ戦略」と呼ぶように、参加した社員が便益を実感できる施策を組み、楽しそうに取り組む輪を可視化することが要となる。手法の本質はマーケティングと変わらない。喫煙者がタバコを味で選ぶのではなく「かっこいい」というイメージで吸い始めるのと同様、健康行動も「かっこいい」を多数派にすることで定着する。「健康に悪いからやめて」より「かっこ悪いからやめよう」の方が効くと石田氏は指摘した。
象徴的な例として石田氏が挙げたのが、トップアスリートの睡眠時間である。「プロ野球の大谷翔平選手や、将棋の藤井聡太棋士は、いずれも長時間睡眠を重視しています。また、高校野球の強豪校である慶應義塾高等学校野球部も、十分な睡眠を重視するトレーニング文化を築いてきました」と話す。トレーニング時間を削ってでも睡眠を確保し、試合当日にパフォーマンスを出す方が合理的だという発想が、若い世代のスポーツ現場では標準になった。日本人の睡眠時間も、2000年前後と比べれば2025年前後には増えているという。ビジネスの現場でも、「昨日4時間しか寝ていない」を武勇伝とする文化を、「毎日8時間寝ている」を前提とする文化へと書き換える必要があると石田氏は訴える。
心陽の経営課題と新サービス 経営トップへの直接のリーチ
事業を15年以上続けてきた石田氏が、現時点で最大の経営課題に挙げるのは、経営トップへのコンタクト機会の限界である。学会や記事で発信すると意識の高い担当者は関心を寄せるが、社に持ち帰ると「うちには産業医がいる」の一言で止まってしまう。健康経営に踏み込む公衆衛生のプロフェッショナルは希少で、いま身軽に動ける存在は自身くらいだと語る石田氏は、経営者に直接届く場を強く求めている。
折しも、ストレスチェック制度は50人未満の事業場にも拡大される段階に入っている。「労働安全衛生法及び作業環境測定法の一部を改正する法律」(令和7年法律第33号)が2025年5月14日に公布され、これまで努力義務にとどまっていた従業員50人未満の事業場にも実施が義務化される。施行日は2028年4月が予定されている。バックオフィス業務を一人で兼務している小規模事業場では、担当者に施策設計を丸投げしても機能しない。中小企業ほど社長自らが立ち上がる必要があり、大企業でも「うちはどうなのか」を経営トップが把握していないケースが少なくない。全社員の休職率が平均5%で安定していれば制度は回るが、ある年に急に20%まで跳ね上がるようなことが起きれば、小さな組織のダメージは決して同じではない。だからこそ、制度設計を専門家に丸投げできる体制を「命綱」として持っておく意義は大きいと石田氏は説く。
北大認定スタートアップ、ai-X株式会社の革新的なストレスチェックサービス「X-check(クロスチェック)」は、事務担当者の負担を減らし、経営視点の集団分析を行う。法令推奨の職業性ストレス簡易調査票に加え、睡眠と生産性に関する複数の質問項目、企業が独自に設定できる5問を含めて全55問、所要時間は約5分。睡眠不足およびあらゆる健康課題によるプレゼンティーイズム額を示し、覚醒レベルを可視化するPVT(精神運動反応検査)機能を搭載する。ストレスチェックの本来の目的は、労働者が自らのストレスレベルに気づき、メンタルヘルス不調の一次予防行動を開始することにある。石田氏は「結果に応じて『もう少し寝た方がよい』『平日と休日の睡眠時間を揃えた方がよい』といった具体的な行動変容につなげられる」と語り、これから新たに義務化される50人未満の事業場にも活用してほしいと呼びかけた。
「経営者を動かすことが、医師の本懐」
配信の終盤、石田氏は経営者としての自分と医師としての自分を別人格として捉えていないと語った。医師である以上、リスクが見えてしまう以上それを伝えるのは信念というより本能に近いのだという。かつて医者に経営がわかるのかと問われた際、2006年にノーベル平和賞を受賞したグラミン銀行創設者のムハマド・ユヌス氏に相談する機会があった。
石田氏はユヌス氏が支援する若手社会起業家育成プログラム「ユヌス・アンド・ユース ソーシャルビジネス・デザインコンテスト・イン・ジャパン」のメンターも務めており、ユヌス氏との接点があった。ユヌス氏は「僕はバンカーじゃなかったからグラミン銀行を作れた。陽子は経営者じゃなくて医者だからこそできる健康経営をやればいい」と背中を押してくれたという。この言葉が今も石田氏の根底にある。
臨床の場で向き合う患者は、受診するだけの関心を持っているか、受診せざるを得ないほど不調をきたしているかのいずれかで、いずれにせよ発症してから対処することになる。石田氏があえて公衆衛生に軸足を移したのは、経営者を動かすことで企業の価値が高まり、コストが削減され、受診行動の手前にいる大多数の従業員にまでノウハウが浸透する方が、社会全体としてはるかに持続可能だと判断したためだ。石田氏は、中国の古典にある「小医は病を医し、中医は人を医し、大医は国を医す」という言葉を引きながら、企業を癒すことで日本を、そして世界をより良い場にしたいと結んだ。「地球全体を心理社会的集団免疫で救いたい」と語る石田氏の言葉は、健康経営を経営戦略の中核に据え直すためのきわめて実務的な呼びかけとなっている。
本記事は、月刊事業構想オンライン・月刊先端教育オンライン公式Xスペース「進化する構想」(2026年6月16日配信)の内容をもとに構成した。配信のアーカイブは下記URLから視聴できる(公開期間は配信プラットフォームの仕様によるため、留意されたい)。
配信アーカイブ: https://x.com/i/spaces/1DGleewAParJL?s=20