令和日本の構想①「楽しい日本」を哲学する
現在の日本は、アメリカの混乱に象徴されるように、グローバル化に翻弄される世界を生きることを強いられている。そうした時代には、地域政策から国家の方針にいたるまで、時代をひろく俯瞰する視野が求められる。連載第1回は日本の今後のあり方を、石破政権を「哲学」することで考える。
「楽しい日本」という国家哲学

先﨑 彰容(せんざき あきなか)
社会構想大学院大学 社会構想研究科 研究科長・教授
思想史家。博士(文学)。1975年東京都生まれ。東京大学文学部倫理学科卒業、東北大学大学院日本思想史博士課程修了。日本大学危機管理学部教授を経て2025年4月より現職。『個人主義から〈自分らしさ〉へ』(東北大学出版会、2010年)、『ナショナリズムの復権』(ちくま新書、2013年)、『維新と敗戦』(晶文社、2018年)、『国家の尊厳』(新潮新書、2021年)、『本居宣長』(新潮選書、2024年)、『批評回帰宣言』(ミネルヴァ書房、2024年)など著書多数。
石破政権の目玉政策は、当初、地方創生と防災庁の設置だと言われていた。外交でいえばアジア版NATOの創設ということになるだろう。確かに少子高齢化の顕著な例は、地方の高齢化率にあることはまちがいないし、南海トラフ地震予想が世間の注目を集めている以上、防災の司令塔の必要性も納得できるものである。アジア版NATOについては、実現に否定的な論調が多いけれども、私は実現の可否よりも、「安全保障の面においても、日本はこれからアジアで主導的な役割をはたしたい」という、そのメッセージ性が重要だと評価する。
ただ、いずれにしても、これらは個別具体的な政策にすぎない。例えば、菅義偉内閣が組閣直後に携帯電話料金の値下げなど、矢継ぎ早に発表したことを記憶しているだろう。実務型であることを自認し総務大臣経験のある菅氏は、具体的な政策を掲げることで、国民の注目を引こうとした。ただ、安倍晋三元総理との比較でしばしば言われるように、総理在任中の安倍元総理は、「美しい日本」であれ、「自由で開かれたインド太平洋」であれ、個別の政策だけでなく、それらを「俯瞰」する視座があった。日本がどの方向へ向かっていくのか、またその日本が国際社会のなかで、どのような地位でありたいのかという「哲学」が、明確に存在したのである。
そう考えてみると、では石破政権の個別政策を支える「哲学」とは、いったい何であろうか。ひとまずは「楽しい日本」だと答えることができる。ただ不幸なことに、この「楽しい日本」は、今年1月の施政方針演説で披露されて以降、好意的評価を受けることがはなはだ少なかったように思う。「国民が苦しい時代に楽しいとは何事だ」とか、「まずは経済成長だろう。カネがあって、ようやく楽しくなるのだ」といった意見が散見された。否定的な評価はおおむね、現状を否定的にみたうえで、楽観的な「楽しい」という言葉に苛立ちを表したものだろう。
だが、少し立ち止まる必要があるだろう。
そもそも施政方針演説で、石破総理はどのように「楽しい日本」を説明していたのだろうか。筆者なりの理解でいえば、石破総理は、故・堺屋太一の遺著『三度目の日本』(2019年)を参照しつつ、日本近代史を大きく三つの時代に分類したうえで、国家主導の「強い日本」の時代、企業主導の「豊かな日本」の時代があったとし、それに代わる新時代の日本として、一人ひとりが活躍する「楽しい日本」を構築したいのだと言っている。この「俯瞰」した視点から見た場合、個別政策の一丁目一番地にあるのが、「地方創成2・0」であり、「令和の日本列島改造」ということになる。東京一極集中を是正し、多極分散型、つまり多様な地方の個性を生かす政策を行い、田中角栄のひそみにならい、「令和の日本列島改造」を行いたいというわけだ。
施政方針演説する石破茂首相
ただ、以上のように要約してもなお、筆者は、あまりにも「楽しい日本」の説明が不足していると思う。いきなり「強い日本」、「豊かな日本」と言われても、国民には理解しづらいであろう。しかも先ほどの批判的発言は、実は政治家のものである。政治家ですら、理解はこの程度にとどまってしまっている。
だが、筆者が『三度目の日本』を読む限り、「楽しい日本」はかなり興味深い問題提起と、矛盾を抱えた「哲学」があり、議論し吟味するに十分値すると思っている。以下では、日本の未来を「俯瞰」し、あるべき全体像を示した「哲学」として、「楽しい日本」の内容をしばらく追いかけてみたいと思う。
堺屋太一による国家的「価値観」の変遷
まず何よりも堺屋太一が面白いのは、国家の「価値観」こそが、論じるべき最重要課題だと宣言したことにある。
黒船来航以前、江戸時代の日本人には、彼らの常識、すなわち「価値観」があった。ペリー来航がもつ意味は、この「価値観」が敗北し、新たな「価値観」に取って代わったことにある。「価値観」とは、倫理観と美意識から成り立っているのだから、それが大転換することは、日本人の生き方、国家像までもが劇的に変化することを意味する。
明治時代こそ、一度目の新たな「価値観」の時代である。それは国家が中央集権で主導し、富国強兵と殖産興業を推し進めて、「強い日本」をつくる。国家のために奉仕する勤勉と進取の気性こそ、明治人の倫理観だった。
だが第二次大戦の敗北によって、この「価値観」は終焉を告げた。それに代わる二度目の日本の「価値観」は、経済的な豊かさの追求だった。その具体例が、「規格大量生産方式」である。同じ規格に基づいて大量生産された商品を、全ての日本人が、安価で手に入れることができる。この理想こそが、敗戦後の高度経済成長期の国家像であった。
規格大量生産の鑑とされたT型フォードの組み立てライン
工業発展を支えたのが、日本型企業である。日本人男性はサラリーマンとして、国家ではなく、むしろ企業に所属意識をもち、転勤を厭わず働いた。それは一個人の人生が、住んでいる地域や共同体の人間関係に所属せず、企業に所属したということだ。東京に産業・情報・文化の集中が徹底され、地方は単身赴任先であり、また東京を後方支援する工場地帯、あるいは農産物の供給地としての役割をはたしたわけだ。でも、こうした画一的な生き方は、はたして「豊か」なのだろうか。次回は、この点を掘り下げてみたいと思う。(以下、次回)