【セミナーレポート】日本の「現場力」が通用しなくなった理由

事業構想大学院大学は、「MPDダイアローグ 第3回」を事業構想大学院大学青山校とオンラインにて開催した 。多摩大学大学院名誉教授でJapan Innovation Networkチェアパーソン・理事の紺野登氏、東急総合研究所社長の東浦亮典氏、そして事業構想大学院大学学長の田中里沙が登壇した 

本ダイアローグでは、従来のVUCA時代を超え、すべてが「脆弱で、不安で、計画通りにいかず、理解しがたい混沌(BANI)」に覆われ、自身の構造そのものが揺らぐ時代において、世界的な競争構造の劇的な転換と、日本のイノベーション経営が直面する根深い課題について議論が交わされた

(左より)事業構想大学院大学学長の田中里沙、多摩大学大学院名誉教授の紺野登氏、東急総合研究所社長の東浦亮典氏、事業構想大学院大学特任教授の大武みなみ


競争軸の転換 日本の強みは一連のリバースエンジニアリングで無力化

知識経営の第一人者である紺野登氏は、世界経済の競争軸が「工業社会の論理」から「知識社会の論理」へと戦略的に移行した経緯を分析した

紺野氏によれば、日本がかつて世界をリードした現場力と品質の優位性(ISOやMSに代表される「品質の時代」)は、世界のビジネススクールや企業によって戦略的に乗り越えられたと指摘した 。日本の強みを解体し、結果的に競争の焦点を「創造性、知識」へと引き上げるイノベーション・マネジメントを構築したことは、日本の優位性を無力化するための、一連の「リバースエンジニアリング」的アプローチであったと述べた 。こうした環境変化によって、日本企業は長年培ってきた競争力を、構造的に奪われてしまった形となっているという認識を示した

イノベーションの劇場化を脱し、体系的なマネジメントへ

紺野氏は、この構造転換の中で日本企業が陥っている現状にも強く警鐘を鳴らした 。新規事業は生まれても成長がなく、整理できない経営者の声も聞こえる。形だけの活動に陥っていると指摘し、「イノベーション劇場はもうたくさん」というリーンスタートアップ運動創設者のスティーブ・ブランク氏の言葉を引用しイノベーションマネジメントシステム(IMS)の重要性を訴えた

イノベーションは新規事業に限らないこと、そして小手先の新規事業創出ではなく、体系的なマネジメントの必要性を強調した 。また、ウクライナ情勢以降、防衛産業銘柄がESG(環境・社会・ガバナンス)銘柄になっているといった事実に触れ、「すでに世界は変わっている」という認識を共有する必要性を訴えた

エコシステム経済への移行とオープンイノベーションは不可分

紺野氏は、もはや現在のイノベーション経営の未来は、GAFAMのような巨大プレイヤーが支配する、デジタル化とエコシステム経済にあると解説した 。オープンイノベーションを超えるIMS、エコシステム、デジタル化は三位一体の関係にあるとし、「エコシステムにならずに単独で投資を行っても無駄」であると強く主張した

また、もはや自動車産業のように固定の産業は存在せず、エネルギーとデータを中心とした複雑なエコシステムへと変貌を遂げており、この新しい経済圏の構図を捉え直すことが急務であるとした 。さらに紺野氏は、スタートアップブームに頼ることについても「スタートアップだけでは構造転換しない。経済成長しているところでスタートアップが生まれるのであり、逆はない」と述べ、国や産業の根本的な構造を変える必要性を強く訴えた


紺野登氏提供

三氏の対談で深掘りされたイノベーションマネジメントの具体論

この全体像の提示を受け、田中氏、東浦氏、紺野氏の三氏による対談では、IMSの具体的な適用方法と、組織文化の変革について議論が深まった

まず、田中学長は、参加者への問いかけを通じて、イノベーション・マネジメント・システム(ISO 56000シリーズ)の認知度が依然として低い現状を指摘した 。しかし、同規格はイノベーションをシステムで起こすための国際標準であり、自社の事業構想を体現可能にするための可視化や、社内外の説得材料としての国際基準適用に活用することが重要と話した

一方、東浦氏は、自身が東急グループ内でイノベーションを推進してきた経験から、「社内では、個人の突破力など、『一発芸的なキャラ』としてイノベーションが語られることが多い」と問題提起した 。これに対し紺野氏は、特殊な能力を持つ人がいたとしても、それを育みサポートする組織づくりや仕組みがなければイノベーションは持続しないと指摘 。「野球場を作らないでホームランを打てというのも問題」であり、持続的なイノベーションには組織全体を連動させることが不可欠だと説いた

対談では、IMSの根幹をなすISO 56000の原則が持つ、経営文化変革の意図について議論が展開された 。東浦氏が、従来のISOが持つ「堅い」イメージとは異なり、IMSの原則が「価値の実現」や「未来志向のリーダーシップ」といった、より柔軟なニュアンスの表現を含んでいる点に注目 。これに対し紺野氏は、これらの原則は単なるキャッチフレーズではなく、日本企業に根付いた「効率追求の文化」からの脱却と、既存のバイアスや組織文化を根本から見直すことを促すための「プリンシプル(原則)」として意図されていると説明した 。この原則の導入こそが、イノベーションを阻む経営思想を乗り越えるための重要な一手であるという認識が共有された

さらに、IMSを機能させるためには、イノベーション担当者だけでなく組織全体で共通言語を持つべきという提言がなされた 。東浦氏が、既存事業と新規事業ではゲームや価値観が全く違うため、財務や経営企画といったコーポレート部門との間で共通言語が通じないと問題提起したのに対し、紺野氏は、人事部も含めたすべてのコーポレート部門がIMSを学ぶことで、将来必要な人材像や、ボトルネックを解消するためのシステム思考が生まれると主張した 。このボトルネックの解消には、有名な経営書「ザ・ゴール」の教訓が示す通り、全体システムの中で最も遅い部分に解決策を集中させることが重要であるとした

最後に、対談はAI時代におけるイノベーションの未来に及んだ 。AIエージェント同士が自律的にやり取りする時代が到来すると、企業内の組織の縦割りが意味をなさなくなり、企業は巨大な「空中戦」に投げ込まれることになると東浦氏は予測 。紺野氏も、AIが企業のコンテンツを直接吸収し提供するようになると、顧客のためにベストなエコシステムをデザインするメタレベルでのプラットフォーム戦略を真剣に考えなければ、企業が投資した成果が無駄になりかねないと強く警鐘を鳴らした

日本の再起への道

紺野氏は、日本の再起と構造転換に向け、道を生み出すための以下を提言した

まず、日本の強みである現場力を、世界の潮流であるIMSと戦略的に掛け合わせることで活用する必要があるという点 。IMSは、ビジネスモデルの革新やスタートアップへの投資もイノベーションと捉え、意図、戦略、知識創造を通じてマネジメントする体系だ 。そのためには、「うまくどうやって失敗できる組織にするか」という設計思想が重要であり、「失敗すればするほど成功する」文化の醸成が求められる。このイノベーションマネジメントを担えるプロフェッショナル人材の育成は不可欠であり、既に北欧や中国ではその教育が進んでいることから、IMSを組織、産業、個人の未来を生み出す場として活用すべきであると強調した

なお、登壇者の紺野氏は、欧州ドラッカー協会より「シニアフェロー」の称号を授与されている 。本ダイアローグでも紹介された場として、2026年2月に「オープンイノベーションフューチャーイノベーションランドテーブル」の開催が構想されている 。このラウンドテーブルは、縦割りを超えた横断的な議論を行うことを目的としており、紺野氏が指摘した日本の課題を乗り越え、イノベーション文化の醸成に向けた具体的なアクションとしても注目される。