実務家教員が求められる社会的背景(その2)

Society5.0(超スマート社会)とSociety4.0(情報社会)の間に、どのような変化があるのだろうか。Society1.0と2.0の間に、2.0と3.0の間に、そして3.0と4.0の間に技術革命があったように、4.0と5.0の間に「何らかの技術革命」があるのだろうか。しかしこれまで見てきたようにSociety5.0は、AIなどの新たな技術などの名称が出てくるもののSociety4.0(情報社会)における情報技術の延長線に位置づけられる。

言いかえれば、産業技術革命と情報技術革命ほどの技術革命という断絶が4.0と5.0には生じていない。つまり、4.0から5.0へと社会がバージョンアップするのだとしたら、これまでのバージョンアップする条件が技術革命であったのに対して、バージョンアップする条件そのものが変化したのだと考えることができる。そのヒントに次の文章を引用しよう。「これまでの情報社会(Society4.0)では知識や情報が共有されず、分野横断的な連携が不十分であるという問題がありました」(内閣府「Society5.0」)とある。となればSociety5.0は、「知識・情報や情報技術そのものを俯瞰的にとらえ、さまざまな知見を融合することが重要な社会」ということになろう。Society4.0と5.0の違いは「知識のあり方」そのものが変化したと捉えるべきであろう。これまでの技術革命は「技術」という知識が見いだされてきた。次の社会では、そういった知識を一段上から俯瞰的にみて、その知識をいかに利活用して新たな価値を創造するのかという点に焦点が変わったのである。

筆者の見立てでは、Society5.0は「知識社会」であるといえる。現代社会は高度に複雑化した社会であり、そのために社会は多様な知識やスキルを要求されるようになったのである。その要求に応えるためには、情報や知識の利活用が不可欠である。利活用するためには、第一に情報・知識の流通を支えるインフラが必要になる。このようなICTについては5GやGIGAスクールなど積極的に取り組まれている。そして第二に、大量に流通する情報・知識を俯瞰的にみて整理するためのメタ的な知識が必要になる。後者はまだまだ取り組まれていないのが現状である。

ところで「知識基盤社会 knowledge-based society」あるいは「知識社会 knowledge Society」とは何だろうか。この「知識社会」という言葉そのものを整理しておきたい。「知識社会」をはじめに指摘したのは、P・F・ドラッカーである。1968年に『断絶の時代』のなかで触れられている。ドラッカーというとマネジメント論のイメージが先行しているが、ドラッカーのマネジメント論の本質は「知識(労働者)をいかに活用するのか」という視点で論じられている。また1973年にはD・ベルが『脱工業社会の到来』で、理論的知識が社会の中心を占めるようになることを指摘していることも見逃せない。実のところ1960年代の後半から「知識社会」という言葉が使われ始めたのである。ここでの「知識社会」とは広く「知識が重要な役割を果たす社会」の意くらいであるが、この言葉そのものがこれからの社会を表す言葉として用いられていたのである(Society5.0もこれからの社会を表す言葉として用いられているのが興味深い)。

日本において「知識社会」という言葉が浸透するきっかけになったのは、2005年頃ではないだろか。文部科学省の中央教育審議会『我が国の高等教育の将来像(答申)』に「知識基盤社会」という言葉が登場した。

「21世紀は、新しい知識・情報・技術が政治経済・文化をはじめ社会のあらゆる領域での活動の基盤として飛躍的に重要性を増す、いわゆる『知識基盤社会』(knowledge-based society)の時代であると言われる」