変わる死生観、「曖昧な喪失」とじっくり向き合う時間が必要

新型コロナ肺炎による死亡は、病の急速な進行や感染症のリスクと相まって遺族にとっては、最期の看取りや最後のお別れもない「曖昧な喪失」であった。東日本大震災にみる「喪失」体験に立ち戻りつつ、人びとの死生観に与える示唆を考察する。

金菱 清(関西学院大学社会学部 教授)

アフター・コロナは感染症拡大が過ぎ去った後のことを指すが、現在(5月上旬)までのところ収束の見込みは立たず、ワクチン開発に数年かかること、感染者が免疫を持ちにくいことや無症状の感染者などを考えると、継続的にこの状態が続くことになる。すなわち、アフター・コロナではなくウイズ・コロナ(とともに)としばらくはなるだろう。

新型コロナウィルスによる感染症拡大は、実は死生観にも大きな変容をもたらしつつある。つい昨日まで元気だった人がものの2・3週間であっという間に死に至るのである。とりわけ日本の著名人では、タレントの志村けんさんや岡江久美子さんらが、コロナ肺炎で死亡後家族の最期の看取りや立ち会うことが許されず、焼却後骨壺だけが返却されたことは記憶に新しい。他国でもたとえばイランなどでは埋葬地すら感染症のリスクから遺族にわからないようにされていた。

こうした感染症が露呈させたことは、遺族にとっては、最期の看取りも叶わないまま最後のお別れもない、いわば「行方不明」にも似た状態であるという点である。家族療法家のポーリンボスは、それを「曖昧な喪失」と呼んだ。それは、死去しご遺体があってお葬式の催行後火葬し埋葬するといった「明確な喪失」に比しての呼称である。彼女は具体的な事例として、戦争や津波などの災害で、ご遺体が遺族の元に戻らないケースを想定した。その意味で今回の感染症による死者とその遺族もまた「曖昧な喪失」と向き合わざるをえないことを意味するだろう。私たちはどのように新型コロナウィルスの感染症以降の死を考えればよいだろうか。

人が看取りや別れを経ないまま逝く「曖昧な喪失」。その状態と向き合う遺族には、熟慮の時間という余地が生み出されている(写真はイメージ)

いま改めて意味を持つ
東日本大震災の「喪失」体験

そのヒントとなるのが東日本大震災における行方不明者に関する知見である。津波による行方不明もまた遺体の帰らないまま死を追認したり/しなかったりする事象である。実は第三者からの客観的な死を説明されても、死を受けとめる当事者にとっての意味の変更は何ひとつもたらさないことが私どもの知見からわかってきている。

脳死や心停止などの生物学的な死とそれとは異なる感知が本人の気持ちにある。そしてこの気持ちのあり方は、私たちが既存のものとは異なる宗教観を持ち始めていることを強く感じさせるのである。私どもは、それを一冊の本としてこの3月に上梓した(東北学院大学震災の記録プロジェクト編・金菱清(ゼミナール)編, 2020)。

災害を10年の時間幅でみるならば、通常のプロセスとは異なるものの、その人なりの気持ちの落ち着かせどころを得ている。このことを裏付けるように、震災後数多くだされた文学作品を拾うなかで、言語態分析者の木村朗子は、『その後の震災後文学論』のなかで、「過去の時間に属するはずの死者たちが、現在に突如、挿し入るようにして存在を現すのである。つまりここでの死者は、過去という終わった時勢からの回帰(revenant)としてではなくて、過去からひきつづき現在時に存在し続けている状態」(木村,2018:166)を描いている。

木村は、死者を自らのうちに取り込まずに、喪の作業の内在化の過程を拒絶し、他者を他者のままに生きている死者として持ち続けることを積極的に評価している。私どもは、科学的な視点からでなく、文学的内奥から紡がれる言葉を通して、現実のほとばしる場面を構成する社会について再度科学の再考を迫られたのが震災である。それは今回の災害と称せるコロナ以降の死生観にも通じるところである。

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