新型コロナウイルスの出現により、感染拡大を抑えるための規制と、自由な経済活動・教育環境の平等といった権利の間にコンフリクトが生じている。企業や個人の活動の規範である法律の視点から“ウィズコロナ”をどう見るか、法学者の木村草太氏に指摘いただく。
ポストコロナの2つのシナリオ
「ポストコロナ」の時代には、2つの可能性がある。
第一は、封じ込め策の成功や奇跡的なスピードでのワクチン開発によって、巨大な経済的損失を残しつつも、新型コロナウイルス発生以前の社会状況が早期に復活する可能性。第二は、数年あるいは十数年にわたって、ウイルスと共存しなくてはならない可能性。幸運にも第一の可能性が実現したなら、根本的に新しい制度を作る必要はなく、損失回復に向けて社会保障や景気刺激策を淡々と進めればよい。
問題は、第二の場合だ。新型コロナウイルスは、感染しても軽症・無症状の者が多い一方で、致死率が比較的高く、重症者の治療に多くの医療資源が必要になるとの特徴がある。このウイルスと長期的に共存するには、法制度の面でもさまざまな対応が必要となる。現段階で、特に重要と思われるものを2つ挙げておこう。

個人や企業の活動の規範となる法律や憲法。コロナウイルス出現によって個人や企業の権利や活動の自由といった概念にも変化が起こるのだろうか
感染対策と平等を
いかに両立するか?
第一に、大人数の集まりをできる限り抑制する制度が必要だ。抑制対象は、労働・文化・教育など、さまざまな分野に及ぶ。
例えば、学校教育の場面を考えよう。まず、オンライン化可能な部分は、すべてオンラインに移す必要がある。PCやタブレットは、教科書と並ぶ学習必需品となるから、子どもたちが無償で利用できるようにする法制度が必要になる。さらに、Web会議やオンデマンド配信のシステムが校舎と同様の公共性を持つことになるから、そのシステムの整備は、私企業任せではなく、公的に担う必要もあろう。
体育など、オンラインで対応できない授業を維持するには、1年生は月曜日、2年生は火曜日といった分散登校などの工夫も必要になろう。また、画面越しでは集中力が持たない子どもたちのために、少人数で対面の補講を行うなどの措置も必要になる。
こうした世界では、各人によって学習ペースに大きな差異が生じるので、「進級」や「単位認定」を学期末・学年末に一斉に行うのではなく、検定試験のような形で、習熟度合いに応じて個別に行う方がよいだろう。それには、当然、学校教育法や関係施行令・学習指導要領の見直しが必要になる。
労働や文化活動についても同様で、公的なオンラインインフラを強化し、感染症対策を行ったうえで、PCやタブレットを使えない人への援助も行うべきだ。適切な援助を怠れば、平等原則(憲法14条)に違反すると評価されるだろう。
“規制”と“緩和”が長期に
繰り返されうる環境に必要なものは
第二に、ウイルスと長期に共存するには、反復的に外出・営業規制を行う制度が必要となる。大規模な外出・営業の自粛要請によって、いったんは感染者数が減少傾向となったとしても、規制を緩和すれば、感染者数が増加傾向に転じ、再び規制強化が必要になる可能性があるからだ。
影響が長期化すれば、人々にとって、いつ頃に規制が強化されるのかの予測がつくことはとても重要となる。いかなる場合に規制を強化あるいは緩和するのかの基準を、感染者数や集中治療室の占拠率など、明確に示す必要がある。また、規制時の補償・罰則などのルール作りも必要になる。
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