知識格差とハイパーラーニング・ソサエティ
知識労働者とサービス労働者の間で格差が広がる可能性があると指摘した。それはすなわち、知識を持つ者と持たない者との格差が広がることを意味していた。知識社会では、知識が最大の資源となり富の源泉となりうる。したがって、新たな知識を生産するために資本を投下することになる。知識の生産スピードが高まれば、知識そのものの陳腐化(時代遅れ)の速度も早くなる。
知識の陳腐化が早くなれば、新たな知識を学び直すことが必要となる。自己実現のために、あるいはキャリア形成のために、より実現的なことを言えばエンプロイアビリティ(雇用可能性)を高めようとすれば最新の知識やスキルを維持することは不可欠である。だからこそ知識社会とリカレント教育は相性がよい。
ハイパーラーニング・ソサエティ
昨今、人生100年時代といわれているがこれもリカレント教育を後押しする事態である。人生が80年から100年へと伸び、人生の最初期に教育をうけた知識だけで生涯を全うすることはできない。また、これまでのように人生の最初期に教育を受け、仕事をし、ある程度の年齢で引退をするようなリニア型の人生モデルでもなくなった。人生を実り豊かに過ごしていくことは、常に学びとともにある。
したがって、人生100年時代は生涯学習社会といって差し支えないだろう。
整理しよう。知識社会によれば、知識が社会の様々な領域の基盤になるので、知識を持っている者と持たざる者で格差が広がる可能性がある。知識には境界がないので競争も激しくなる。知識のライフサイクルが早まることで、知識の変化(陳腐化やパラダイム転換)も激しくなるので、常に新たな知識を習得し続ける必要が生じる。生涯を通じて学習する社会のことをラーニング・ソサエティ(Learning Society)と呼ぶ。
ラーニング・ソサエティは、シカゴ大学学長であったロバート・M・ハッチンスが提唱した概念である。ハッチンスのラーニング・ソサエティの概念は、「すべての個人は生涯を通じて学習を継続できなければならない」というものだった。ハッチンスは、ほとんどの人に教養教育が行き届くによう整備をすることが重要であると説いたのである。
しかし知識社会においては、もはや個人の生涯をこえてさまざまな社会領域の発展に継続的な学習が必要になっているのではないか。生涯を通じて学習することを自身の選択で自由におこない、またその学習成果について自身で責任を負うこと(新しい知識を習得する/しないの自由は保証されているが、その選択は個人の責任となる)。また、個人の学習(あるいは学習することへの期待)が社会に組み込まれている状態ではないか。筆者は、こうした状態をハイパーラーニング・ソサエティと定義している。ハイパーラーニング・ソサエティでは、学び手はどのような学習を選択するのかという一定の責任を負い、学びの担い手側は学びの質保障を負っていると言える。