世界を制した川内優輝 次に目指すは「地域振興型プロランナー」

「市民ランナーの星」として10年にも亘り走り続けてきた川内優輝。ボストンマラソン優勝という快挙を達成し、市民の星は「世界のKAWAUCHI」として世界に名を馳せ、2019年4月、33歳でプロランナーに転向した。常にマラソンと真摯に向き合い、幾多の困難を乗り越えてきた川内。コロナ禍の今、何を思うのか。

文・油井なおみ

 

川内 優輝(プロランナー)

公務員として職務を果たしながら
苦難を乗り越え走り抜けた日々

川内優輝が初めてレースに挑んだのは、小学1年生の頃。『S&B杯ちびっ子健康マラソン大会』の募集を親がたまたま見つけ、エントリーしたのがきっかけだ。種目は1500m。

「とくに練習したわけではなかったんですが5位になって、両親がその気になってしまったんです(笑)」

以来、川内の陸上人生は始まった。

中学・高校でも陸上部に所属し、活躍を続けた。だが、高校3年生はけがでほとんどの大会を欠場。大学から推薦の声がかかることはなく、自力で学習院大学に進むこととなった。

いわゆるマラソン強豪校ではなかったが、そこでも川内は地道に力をつけ、関東学連選抜チームの一員として、学習院大学から初めて箱根駅伝に出場。好成績を残した。

一方でこの頃、父が心筋梗塞で他界。まだ学生だった川内の悲しみや不安は計り知れない。しかし、ちょうど人生の岐路となる時期でもあった。

「弟ふたりと母がいたので、当時は就職して家計を支えなければという気持ちが強かったですね。実力からしても、プロへの道は考えませんでした」

埼玉県庁に入庁後も川内はマラソンを続けた。フルタイムで就業しながらも記録はぐんぐん伸び、『市民ランナーの星』として注目を集めた。

2011年には第13回世界陸上選手権の日本代表選手に選出。以来、第14回、第16回、第17回と出場した。実業団からの誘いもあったが、川内は市民ランナーを貫き、「実業団には負けたくない」という発言も残している。

「記録が伸びている時期に、競技スタイルを変える必要はないと考えていました。アマチュアでしたが、プロ精神だけは持つようにしていたんです」

しかし、公務員として働きながら、プロ並みの結果を出すのは並大抵のことではない。実業団選手は月間1000km以上走るといわれているが、川内はその半分強。連続した休みもなかなか取れない為、高地トレーニングはプロになるまでできなかったという。

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